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わたしたちの租先は,ずいぶん古くからこの土地に住みついていたといわれています。けれども,それがいつごろのことかとなると,いまだにはっきりされていません。
ただ,1300年ほど昔の遠津川の人たちのことが,日本書紀(*1)に現れることからみて,それ以前から住んでいたと考えらえます。また,800年あまり昔の古い文書(*2)にも,遠津川という地名がみられます。
この遠津川(*3)というのは,港や都から遠くはなれた山深いところという意味らしく,十津川のもとの呼び名であったようです。
しかし,そのころの遠津川は,今の十津川に,大塔・野迫川方面までも含めた広い地方(*4)をさしていたと考えられます。
660年ほども昔,郷民は,朝廷と深く結びついていましたが,そのころの書状などから,十津川(*5)と呼ばれるようになっていたことがうかがわれます。しかし,このころの十津川も,やはり今の村より広い土地をさしていたものと思われます。
410年ほど昔,検地といって,全国の田畑などを調べ直して,税の収め方を改めることが行われました。そのころ,十津川は,大和郡山のとのさま(*6)の領地となりましたが,古文書(*7)によれば,米千石(*8)にあたいする土地ではあるが,特に年貢をゆるす(*9),とあります。
郷民は,この土地に住みついてからこのころまでには,ずいぶん長い年月をすごしました。しかし,これといった産物もなく,人々はわずかばかりの田畑をたがやし,ほそぼそと生きてきたものにちがいありません。
江戸時代になって,十津川は,幕府が直接おさめる土地となりましたが,郷民が,幕府のためによく働いた(*10)こともあって,今までどおり年貢はゆるされることになりました。そこで,一部の人は,北山郷(*11)の幕府用材を運ぶ筏役(*12)をすすんでつとめました。しかし,木材が生産されるようになった元禄のころ,幕府は,山手銀(*13)という税を1年間ほどとりたてました。
今の十津川村だけをさして,十津川郷と呼ぶようになったのはこのころからです。このころの郷には,たくさんの村がありましたが,これらを上組(今の中野村区・神納川区)・下組(今の二村区・三村区・東区・四村区・西川区)と大きく2つに分けていました。
幕末のころには,林業がさかんになり,木材や炭などを新宮方面へ多く売り出すようになりました。ところが,新宮のとのさま(*14)は,これに二分口銀(*15)という重い税をかけました。村人はこれをこばんで,かけあいましたが,聞き入れられず,この重い税は明治4年までも続いたといわれます。120年あまり前,明治維新が起り,世の中のしくみがすっかりかわりました。
明治22年,十津川郷は,それまでの59か村を,北十津川村(*16)・十津川花園村(*17)・中十津川村(*18)・東十津川村(*19)・南十津川村(*20)・西十津川村(*21)の6つにまとめました。
明治23年,これらの6つの村をまとめて十津川村とし,村内55か大字,7区制(*22)としました。これが今に続いているのです。 |
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(*1) |
奈良時代につくられた歴史書 |
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(*2) |
高野山文書 |
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(*3) |
遠津川ともかく |
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(*4) |
むしろ大塔を中心とする地方をさす。 |
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(*5) |
このころは,和歌山県の宮井あたりまでもふくむと考えられる。 |
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(*6) |
豊臣秀長(秀吉のおい) |
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(*7) |
検地帳など歴史資料館にある。 |
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(*8) |
千石は180kl |
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(*9) |
北山一揆をおさえたてがらなどによる。 |
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(*10) |
大阪夏の陣に出陣,山地一揆,北山一揆をおさえる。 |
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(*11) |
今の上・下北山村および和歌山県の北山村 |
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(*12) |
45人がこの役をつとめた。ふち米75石あまりをもらう。 |
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(*13) |
林産物への税金 |
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(*14) |
紀州藩の家老水野忠史 |
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(*15) |
ねだんの10分の2の税 |
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(*16) |
中野村区・神納川区 |
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(*17) |
二村区 |
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(*18) |
三村区 |
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(*19) |
東区 |
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(*20) |
四村区 |
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(*21) |
西川区 |
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(*22) |
それまでの北十津川村を中野村区と神納川区に分ける。 |
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