十津川探検 ~わたしたちの村 十津川~
五 わたしたちの村のくらしのうつりかわり
2 交通のうつりかわり
乗り合いバス(大正~昭和の初めのころ)
○乗り合いバス(大正~昭和の初めのころ)
 先生が,「十津川の百年史に,こんな昔の車がのっています。」と言って,見せてくださいました。これは,70年ほど前,長殿から上野地の間を走っていた「乗り合いバス」だと知って,ひろし君たちは,おどろきました。そして,このバスの走っていたころのことを知りたくなりました。
 まず,自分たちの学校のまわりや,家の近くに昔の道がないか,調べ,その道について,近くのおじいさんやおばあさんに聞いてみることにしました。


昔の道調べ
 ひろし君たちの学校の近くのすぎ林の中には,昼もうすぐらいような山道がありました。よく見ると,道の両がわに,ところどころ小さな石できれいにつまれた石がきがのこっています。でも,その道も10分も歩くと,新しい道をつくるためにけずりとられたのか,消えていました。近くの家に行って,おばあさんに聞いてみました。

 おばあさんの話
おばあさん この道は,西熊野街道だよ。わたしが子どものころは,この道を五條まで1日かかって歩いて,修学旅行に行ったんだよ。五條でとまって,汽車で奈良や京都へ行ったよ。帰りも五條でとまって,夜の明けないうちから歩いて帰ってきたよ。だから,行く時のぞうりと町ではくぞうりと帰りのぞうりと3ぞく用意してもらって行ったよ。
 もっと南の方の人たちは,風屋や上野地でとまって,五條へ行き来していたよ。
道しるべ
道しるべ(五百瀬)
○道しるべ(五百瀬)
五百瀬を通る,高野山街道にのこっている道しるべ。「右高野,左本宮」と書かれている。
 山道ばかり歩いて,よくまよわないものだなあと思い,たずねてみると,「街道の分かれ道には,道しるベがたてられていて,どっちの道を行けばよいか,わかったんだよ。」と教えてくれました。
 今でも,あちこちの山道には,道しるベがのこっていて,山をこえる人の役に立っているようです。
やえんとつり橋
 昔の道を調べてみると,山をこえるようにつくられているのがよくわかります。地図を見てもわかります。山をこえ谷をわたり,少しでも早く,むらとむらの行き来ができるようにつくられています。
 小さな谷には,丸木橋がかけられていたようですが,広い川だと,どうしていたのでしよう。
折立にかかっていたやえん
○折立にかかっていたやえん

 広い川は,わたし船が使われていたのですが,大水が出るたびに使えなくなるので,やえんが,考え出されました。やかたに乗り,つなをたぐってわたります。大雨のあとでも,川をわたることができるようになりました。



高滝にかけられていたつり橋
○高滝にかけられていたつり橋


 明治になって,もっとべんりなものとして,つり橋がかけられました。安全に川をわたることができるようになったそうです。
川ぶねとプロペラ船
 荷物を運んだり,病人を運んだりするため,川ぶねも使われていたようです。
大正10年に,プロペラ船がくるようになり,折立から新宮まで4時間で行けるようになった時はうれしかったそうです。いかだしも,歩かずに帰られるようになり,助かったそうです。
 それでも,大水や,ひでりで川の水が少ない時は,プロペラ船も役に立たなかったようです。
瀞八丁を行きかう川ぶね プロペラ船
○瀞八丁を行きかう川ぶね ○プロペラ船
バスが通る
開通式
○開通式
 これまでに調ベたことから,村の人々は,道路ができ,バスが通ることをどれだけのぞんでいたか,よくわかるでしよう。
 昭和34年には,国道168号線が開通し,村をあげてよろこびました。
 みなさんも,年表や資料などで,どのように道路がつくられてきたか,調べてみましよう。

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