十津川探検 ~風俗図絵~
 「風俗図絵」筆者東直晴について
  東直晴 下滝の長者の裔として『瀞洞夜話』にもしばしば現れる。浦地家の東辰治郎の長男として、明治37年7月11日、十津川村大字神下字田戸に出生。
 中森瀞八郎氏と共に村立葛川小学校(下葛川)に学ぶ。当時の模様は『瀞洞夜話』に詳しい。
 葛川小学校卒業後、当時の村立文武館中学に入学、寄宿舎に入り、玉置山を越えて往来、1年で退学。文武館退学後、4年ばかり田戸の西久保店に丁稚に入り、後には山や筏の仕事を見習ってこれに従事する。24歳で結婚後もこれらの仕事を続けた。
 31歳から葛川の農協に勤務して米の配給業務などに携わり、傍ら森林組合の仕事も勤め、43歳まで書記として村のために尽くす。その後木材業を業とし、また長男光伸氏に在所の下の川のプロペラ船の終点に土産物店を出させる。
 昭和48年、木材業廃業、発病、一時紀州湯川などで湯治。
 昭和49年、新宮市米良病院に入院加療。

 中森瀞八郎氏発病後、親友として尽くし、『瀞洞夜話』の執筆を側面から援助、その挿絵を描くことを約束。中森氏没後、田戸のかつての風俗を想起しつつ丹念な図絵の制作に精進して貴重な資料を提供。その一部は拡大されて県立十津川高校郷土館に展示される。
 直晴氏は、酒・煙草を嗜まず温厚誠実、十津川高校郷土館や県立民俗公園への民具の提供も多い。瀞の水難者死亡者の万霊供養塔、秋葉神社石段登り口の社号碑、その境内の秋葉文庫の建設など信仰心もあつい。
 昭和49年10月帰村。一時小康を得て山彦橋の上に椅子をおいて時々散歩に行っては瀞峡を眺めるを楽しんでいた。また、後嗣光伸氏に民宿「やまびこ」を経営させ、愛孫光輝にフェリーサンフラワー号で三輪崎港から東京へ連れて行ってやると約束しながら、それを果たせず、昭和50年11月3日午前10時、脳軟化症にて逝去する。
 東直晴については
 「十津川探検~十津川人物史~ 東直晴」でも紹介していますので,こちらもどうぞご覧下さい。

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