十津川探検 ~十津川宝蔵文書~
天誅組追討文書写(六通)
   文久3年(1863)8月17日、前侍従中山忠光は同士数十名を従え、皇軍の先鋒と称し、五條代官所を襲い、代官以下の首級を屠り、代官所陣屋を焼き払い、義兵を十津川に募り、高取藩を攻めて失敗、以後各地でゲリラ戦を展開したが、鷲家ロの戦で四散した。幕末討幕の第一声であり、王政復古、明治維新の端緒を開いた天誅組騒動であるが、十津川はこの騒動に大きくまきこまれた。
 ①は8月26日づけの中川宮の御沙汰書(十津川記事)。②は9月5日づけの中川宮の御沙汰書(十津川記事)。③は10月6日づけの中川宮の御沙汰書(十津川記事)。
 10月6日郷士上平主税らが上京し、擾乱前後の状況や各藩に捕えられた郷士の釈放恩赦を哀願した。同日中川官は十津川郷鎮撫として渡辺相模守、東辻図書権助両名を下向さすので、薩摩、土佐藩に警衛、津藤堂藩に御賄案内警衛を仰せつけたもの。
 ④⑤は、9月27日、津藤堂藩の天誅組鎮圧の先手藤堂新七郎(上野城代)から手交されたもの。④は中川宮の御沙汰書。⑤は藤堂新七郎の通達。
 ⑥は10月8日づけで藤堂新七郎内の水沼久大夫が十津川郷鎮撫使の来郷にさいし賄いなどを高田定之進らに命じたもの。
 
 

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