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嘉永6年(1853)ペリー来航を機に十津川郷士らは一郷戮力応分の御用を勤めたい旨の建白書を五條代官所の代官内藤杢左衛門に提出した。しかし幕府からは沙汰なく、ついに十津川郷では文久3年(1863)2月深瀬繁理らを郷士惣代として「赤心建白書」を、次いで同年4月、上平主税らが郷士惣代として中川宮に上願書を捧呈することがあった。5月に中川宮(もと青蓮院尊融法親王のち久邇宮朝彦王)から大和十津川郷有志之者へ「誠忠之志情御感悦之至」「国家之御為致進退侯為手当金」として300両の令旨と下賜があり、次いで6月11日、丸田藤左衛門らが長州藩の佐佐木男也と学習所に参殿したところ東園基敏ら三鄕列席のもとにこの御沙汰書を下賜された。
丸田らはこれを拝受して帰郷、6月15日郷民に披露し郷箱へ納めたことがわかる。 |
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