文久元年(1861)、十津川郷下組の曹洞宗宇治興聖寺の末寺33か寺が江戸城本丸普請料として14両3分の献上願を五條代官所の代官松永善之助に提出したもの。下組の寺院所在地と寺名がわかる。
ちなみに明治4年(1871)一郷あげて仏祭を神葬祭に改めることを請願して認可され、翌5年2月郷内の廃寺を請い、6年4月4日認可された。