|
|
|
|
|
安政3年(1856)3月10日、梅田雲浜が五條の下辻(紙屋)又七に与えた書翰。
梅田雲浜は通称源次郎。若狭国小浜藩士。朱子学を修めた攘夷論者。安政の大獄に殉じた。文中の深瀬は十津川郷士深瀬繁理(1826~1863)のこと。繁理は嘉永3年(1850)郷里を出、諸国を遊歴、同6年ペリーの浦賀来航を機に国事に奔走することを申し合せ、6月総代をして五條代官所に建白書を提出させた。安政元年(1854)繁理は雲浜らを訪れ、国事を論談。同5年正月上平主税・野崎主計らと再び雲浜をたずね、その紹介で長州藩大坂留守居役宍戸九郎兵衛らと物産交換に名をかりて時事を談議。同年4月上京、雲浜をたずね、その紹介で粟田殿に伺候、十津川郷の由緒書を提出、その殊遇をうける端緒を開くことに成功した。
山口薫二郎は梅田雲浜の門人、山城国葛野郡川島村の庄屋。村嶌は大和国葛下郡高田村の豪商村島長兵衛の姻戚の村島内蔵進[くらのしん]のこと。雲浜は妻亡きあと肥後藩士松田範義の媒酌で内蔵進の娘千代を後妻に迎えた。こうした因縁で大和の豪商らと長州藩との間に物産交易をとおし国事に奔走することになった。この書翰で雲浜が下辻又七らと気脈を通じ、十津川の振興をはかるため画策したことが知れる。
安政6年(1859)6月雲浜は十津川村に下り、川津に野崎主計をたずね、滞在数日、時事を談じている。同年9月、雲浜は幕吏に捕えられ、翌6年9月14日幽囚のうちに没した。いっぼう繁理は天誅組に加担、各地を転戦、北山郷に潜伏していたが、やがて藤堂藩士に揃えられ、文久3年(1863)9月25日、京都の白川河原で斬首された。明治3年11月に正五位を追贈された。 |
|
|
|
|
|
 |
|
|
|