高野山僧徒の二大集団の学侶[がくりょ]と行人[ぎょうにん]は、寺領(2万1300石)の配分をめぐって元禄5年(1692)に衝突した。
そのさい南都代官竹村八郎兵衛嘉広は近隣なので十津川郷民の動揺を制し、庄屋に監視を命じた。なお、配下の藤原・秋山の両名を十津川口の立川渡村に出張させ、十津川郷民を監視するとともにその動員をはかった。
十津川郷から使者が参上したのに対し、重ねて郷民の自戒や禁足を令し、和歌山藩の協力要請には即刻呼応できるよう準備させたり、異変あらば即刻注進するよう庄屋らに命じている。