幕府の鉱山開発政策をうけた南都代官竹村八郎兵衛嘉広の銅山見分に郷民は反対し、玉置山や郷内外の社寺に「かな山御留」の立願をおこなったことが知れる。これは、かつて寛文3年(1663)樫原村領山で開掘され多くの被害をこうむったためである。結果は元禄4年(1691)に見分があったが郷民の歎願をうけ開発は中止されたようである。