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熊野北山の山地村の百姓どもが一揆を企だてたので、成敗のため軍勢を派遣したが、十津川郷に逃れてきた同村民は、男女・子供を問わず、なで切りにすることを申付ける。そのさい首一つに米一石を褒美としてつかわすので粉骨するようにと命じたもの。
増田[ました]長盛(~1615)は当時豊臣政権5奉行の一人。この年、大和中納言秀保(秀長の養嗣子)が十津川湯治中に夭折したので郡山城主となった。
文面の長訓は浄楽寺長訓。なお、同年9月23日、同25日の玉置山篠坊(笹坊)宛増田長盛の書状によると、十津川郷士が奮戦し、それぞれ、首二三、首五を討取った功績を賞せられた。 |
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