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豊臣秀長の検地は、十津川・北山両郷としては始めて中央支配権力の進攻をこうむったことだった。十津川郷は甘受したが、北山郷はこれを拒んだ。北山郷は紀州にもわたっている。これの検地奉行は青木紀伊守一矩(新宮城主の堀内氏善は土着武士なので不 起用)・杉若越後守無心(田辺城主)らしい。両名が赦免したとの噂があったが、秀長は武力討伐を決意し、玉置山篠坊には進撃準備を命じている。
篠坊が忠勤、小堀新介に牒報しているのだから天正16年のことであろう。北山郷は天険をたのんで反抗した。しかし、秀長の強権発動に脅え、やがて降服した。これに引かえ、十津川郷は篠坊らの忠勤によって千石赦免の恩恵にあずかったのである。 |
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