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小掘新介正次は大和郡山城主豊臣秀長の老家。小掘氏は近江(滋賀県)坂田郡小堀村(長浜市)の開発領主、新介は浅井長政に属したが、浅井氏滅亡により羽柴秀吉に仕え、その弟の秀長に配属された。天正13年(1585)秀長が大和・和泉・紀伊の3 国太守として郡山城入りしたのに新介も従った。
同15年10月、秀長は新介を奉行として吉野・熊野の奥地の検地を実施した。検地は領主が土地台帳(検地帳)を掌握し、領主支配権力の徹底をはかったものである。このおりの検地帳10冊(北部の上二村組、下二村組)が現存している。
熊野権現の奥院と称される玉置山神社では庵主と篠坊とが秀長に忠誠を誓い、神領の検地赦免を新介を介して嘆願したらしい。 水田は絶無で不毛地帯というに近いのだから秀長はこれを許した。新介がその旨を伝えた文書である。文面によると、西川・玉置下郷のことも見える。いらおう、検地竿入れはなく、現場から指出した土地台帳を承認したらしい(各村の村高は定まった)。
新介はのち徳川家康に仕えて大名となる。寛永文化人の伏見奉行小堀遠州の父である。 |
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