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後六月は閏六月のこと。後村上・長慶の両天皇のそれぞれに該当するが、この綸旨は後村上天皇、その正平4年のものといえる。
吉野山焼掠の高師直の暴挙は南朝方を奮起せしめた。いち早く神河郷民らが吉野金峯山寺前執行(吉野山僧兵隊長の吉水院宗信か)の跡の輩(あととりら)を推し立てて吉野山や安芸郷(現在の下市町秋野地方か)城の奪還攻撃をはかったらしい。天皇はこれを嘉賞し、平康宗を遣わして十津川12村の郷村民らに協力蹶起を命じたものである。ちなみに、時運は南朝に幸いし、翌々6年には京都奪還に成功する。
なお、中世の十津川郷は天川郷の以西以南の汎称である。この12村はいわばロ十津川、現在の大塔・野迫川両村域に成立した郷村(村落連合体)組織である。神河郷はこれとは別個の郷村で十津川支流の神納川流域に成立したものらしい。近世の十津川郷はこの12村組(29村)と袂を分ち、これの以南に凝固する。 |
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