厚司 外套

(図13)自分が17歳で西久保店に小店員として雇われたとき、図13のような厚司と云う着物を着た。勿論、我々は木綿の厚織り生地で、黒色、棒縞などである。

(図14)主人や中年層の材木師は、ラシャ地の高級品を着用していた。外套も図のような木場外套で、裾長く、裾開きのものを着ていた。

(図14.2)の外套は、木津呂、島津、小川口から来る筏師人がよく着用していた型である。木場外套(図14.1)は、背中での継ぎ目なく、裾も折り返してあるが、筏師の(図14.1)は、雨防ぎのため背中二重で、裾は水溜まりのないように切離しであった。

母 通学途中

(図15)左図の女人は、藤かずらを採取に行く寒い朝の母の晩年の姿を想起して描いた。(かずらを切りに行くことを「かずら断ち」と云う。)
頑丈な体に普通の手拭い被りだけでは頬が寒いのと樹間を抜けるのに手拭いを取られぬようにと、更に上に手拭いをかけた姿は自分ながら良く描写し得たと、描き上げたとき思った。オイソ(背負い綱)は、布切れと藁の混ぜ合わせ、ない上げたもの。肩と胸に当たる部分は、組んで平たくしてある。端は普通の縄のない方である。腰当ては「サンダワラ」と云い、藁で自作したもの。脚絆は木綿の紺又は織色と云う生地製。上下は紐縛り、うしろ側は空いていた。
腰巻と云う褌は、冬はネル生地ものを下に、木綿の縞物か紺物を上に纏うているのみで、ズロースなし、自分らも文武館へ入学するまでサル股をはいたことはなかった。手甲は自家製で紐で巻いていた。

(図16)大正5年、自分の尋常6年生当時、冬の通学途中図。右肩から風呂敷包みの教科書。左肩から両口と云う弁当入れ、中にはサイコワツパへお粥しぼりや麦飯が詰めてある。短い袷にハンチャの上着である。女の子も持ち物はこれと同様。
〔両口の説明〕
両口弁当入れは、木綿で両方共紐で絞れるようになっている。雪しぶち(吹雪)の日、濡れると口が堅く締まり、手がはぢかんで(かじかむ)いるため、ちよつと開けにくく,1年生などよく泣いたものだ。


(図17)~(図20)
北山の奥地より筏にて下す場合は、幾つもの激流を通るためカン止めでは抜けて用を弁じないため、陸運になる最終まで「メガ」止めにより下していた。昔は材木の両端共「メガ」を通してネジ木で組み上げた。そして大体4尺~5尺巾に仕上げる。つまり細いものは本数を多く、太いものは数少なくして調節する。そうしたものを一床(トコ)と云い、床と床を繋ぐには樫の細い棒(3尺位)を通して、捻じをかける。(図17) ネジを縛るには1型(図17)と2型(図18)がある。
時を経て力ンを案出するに至り、筏の前方になる梢口(ホボクチ)の方だけメガにして元口の方は力ン止めするものあり。又、両端共力ン組あり。なお又、床と床とを繋ぐにも両方へ小玉を打って捻じがけにするようになった。(図20)

・〔注〕力ンには、円鉄の直径二分のものを二分力ン、三分のものを三分力ンと云い、大抵の場合二分力ンと二分半力ンを使用した。(図19)
捻じ木とは、欅が第一等で、ホウソ(コナラ)、エンタ(ヒメシャラ)等、夏は檜の枝もよく使う。檜以外の枝は不可。すべて主幹を使う。檜枝は湿気あって夏は使えるが、冬は使えない。欅のネジの良品は、新宮から網と一緒に持ち帰ったと云う。それは筏の内でも要所へ使うためであった。

(図21)床は八ツを以て「一乗り」と云ふ。瀞からの分は15床位に長くし、それに幾乗りも合わせて惣床80に及ぶものもあった。一番長い筏〔列〕を「乗り巾」、それより一床短いものを「違い巾又はモヤイ巾」と云う。主引っ込み(オヤヒッコミ)は、乗り巾より四床下げて違い巾に吊る。その際、一床の内より二本を割り出して前に置く。二番引っ込みは主引っ込みより三床下げて主引っ込みに吊る。
これが下乗り筏の編製定法である。斯することにより右曲がり、左曲がり、柔軟に操作し得るのである。

・注-吊る=つなぐ
・注-川の水は冬は細るが、筏は水を堰いて川一杯にすれば後ろから押してくれるから大きく作り、夏は水が増すので大きいと操縦し難いので却って小さく作る。

木馬

(図22)木馬-用材としてバベ(バメ=ウバメガシ)・樫が用いられた。
牛曳用-長さ7尺、厚さ2寸、高さ5寸(最大品)、これに枕木(3寸角、長さ1尺)を付ける。
道路面に並べる盤木
徑2寸5分~3寸5分が標準、4寸以上は二ツ割とする。長さ4尺。
樹種の良質順-馬目(バメ=ウバメガシ)・ソバ=カナメモチ・マッコ=シキビ榊・ホウソ=クヌギ・桜その他、雑木(2級品)
杉、椎は急勾配の所にのみ敷く、辷りが悪いから速度抑制になる。

(図23)材木の側面に打ちつけて組み上げを固めるカスガイを止めるに定石がある。即ち、図の通りにする。逆に打って急停止したとき、突き上げて荷崩れの恐れあり。

(図24)一番下の材木を「ご台」と呼ぶ。同量の材を積んでも高い方が曳き易く、荷重が少ないと云う。梶を取るにも、この辺に木馬方法の入り来る当時は、積み荷の脇にいたが、その後、積荷の中央に一本抜き出して操作するようになった。(図23)
斯すれば、梶も良く利き、万一転覆したときも避難容易である。
我々が小学生当時の通学路はこの盤木を並べた林道であったので、二人並んで歩くと盤木を踏んだとき一方の端が跳ね上がって片側の一人が躓いて倒れた。雨天、下駄履きで歩むと下駄の歯に盤木を踏み込んで倒れることあり。なお盤木と盤木の間が牛の足跡で低く窪み、雨水が溜まって泥を跳ね、まことに歩行困難であった。

木馬曳

(図25)(図26)
木馬を曳くには、水平勾配または逆勾配では牛の助勢で自分も曳張りつつ右手に油筆を持って盤木に塗って滑りを良くする。(梶木に油壺がつけてある。これは左手側となる。)
牛が蠅を追うために尻尾を振ると馬子の顔に当たってうるさいので、図のように鞍に括りつけたのも見られた。人によるが、牛を虐待する者は、牛の力以上に重荷を積み、曳きかねている牛を鞭で叩く。叩かれると悲鳴をあげないまでも、後脚を強く踏ん張るため、前脚が吊り上がって棒立ちになった状態が見かけられた。また、終点に来て曳綱をはずすと、ヨロヨロとよろめいて静止できない牛も見た。
葛川谷林道の牛曳搬出は昭和25年までで、全線通行は止まって、大渡から田戸までは馬に曳かせる大八車が使われた。次いで、昭和32年全線車道になるにおよび馬が7~8頭移入され、木材運送の役割をになった。大八車になれば、足の速い馬へ切り替えたわけである。しかし、これも束の間で、下葛川の乾氏がトラックを使用するに至りて、馬は売り払われ、あたら新品の大八車が解体されたり路傍で腐朽するに至った。なお、牛曳搬出は玉置川線では昭和32年まで見られた。

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