筏 炭焼夫 中文治翁


(図1)筏力ンを使い始めるまでは、(材木に)すべて「メガ」と云う穴を作って「ネジ」を通して組んだものである。されば「メガヨキ」とて特に細長い斧が使われた。此の地方の人は脇下裾に、「馬乗り」と云う切れ目のある縫い方のハンチャを着、「ヤロ」と云う欅の皮で作った刻み煙草入れを差している。煙管筒は木作り、木皮製廃れる前頃はエボナイト物もあった。
 下に看た脛切バッチは江戸脚絆。バッチの股は違ひ合わせになっていて、大小便共脱がずに用足し出来る。これらはすべて市木木綿。色はバッチが青色、脚絆は紺、上着物は縞物が大半で、餅、格子などさまざま。
 子供の頃、祖母より開いた話では、「俺等の若い頃は、厳冬でも足袋の底のあるものを履いたことはなかった。」と云う。自分らの少年時代は、すでにそんな人は見かけなかったが、それでも今と比較すると随分惨めな服装が多かった。

(図2)俺等の少年時代、炭焼夫の格好は斧と鉈だけの道具だけで鋸は持っていなかった。鋸で切ると新芽の発生が悪いと云われていたのである。ボロ切れ(ボロ布のこと)で縄帯を作っていたものが多い。倹約もあるが、しごき帯よりも道具の柄が腰に差し易くて能率的である。
 破れ目を繕ったのは実に驚くほどであった。特に肩と肘は常に繕われていた。ズボンは裾を括ったような装束をしていた。下ばきは、これは炭焼きに限らず、労働者の主な履物であった。
 道具は、武士の帯刀のように左脇に差している人が多かったことが印象に残っている。多分左利きの人が図のように差したのだと思うが、その当時としては道具の柄が特に長かったから、山を分け入るに(左差し)都合が良かったらしい。近年は斧(ヨキ)を携えた人が殆どなくなった。ヨキに代わるに「コガ」又は腰ノコと云うものを使うようになった。

(図3)昭和10年(1935年)山彦橋架設当時、中文治翁が図のような紺の「フンゴミ」と云うものを用いていた。今のモンペと同型なり。その頃まで、老人の大工がよく着けているのを見かけた。
 腰の物は眼鏡入れと貨幣入れ。中翁が愛用していた。

(図4)昭和10年頃までの炭焼夫の服装と道具。〔(図2)の再掲である〕
上着、多くは市木木綿。「ハンチャ」にくけ帯(端を縫い合わせ)。くけ帯は、しごき帯と異なり、(道具の)柄尻がつかえなくて片手で楽に腰に差せるので能率的である。バッチがズボンと異なる点は、股が違ひ合わせになっていて、大小便のとき脱がずに用足し出来る。
 現在の炭焼夫は、下が単袴かズボンで多くは洋風になっている。これは、和服が洋服に変わるにつれ、古着をそのままに使用するからである。作業着を特に洋服にするわけではないが。

(図5)説明なし。

皮羽織 カルサ 出材夫

(図6)皮羽織とカルサは、猟師に多く、山行き労働にも多し。雨に濡れて硬化するので晴天に使用した。もっとも古くなると硬化度が少なくなるが、新品は困るから突然の雨には脱いで持ち帰る父を度々見かけた。手甲も皮製のものがあった。カルサのコハゼ(鞐)も皮製。カルサの腰紐を縛るには、図に描いたごとく折り返して巻付けている。脛の方は片方が穴あき、紺木綿の衿かけ。包丁と呼ぶ山刀を腰に帯びること常なり。






(図7)昔は竪縞の大トビと云うものを使ったとのこと。ツルの代用になる。出材夫を日傭師と云う。
 自分の少年時代、葛川谷を黒木の堰ぎ出しをする人夫には、袂付きの着物を着て、赤い紐の襷をかけた人がいた。信州袴と云うて、今時の土方人夫が多くはいているような膝頭下までのものをつける。江戸脚絆をつける。履物は草鞋。山稼ぎと道行き、又は敏捷を必要とする狩川出しの人は、草鞋でも両側に二つ宛の紐かけ(チチと云う)を用ゆ。
 船頭と筏師は一つ宛の「ゴンゾワラジ」を用いた。これは磧で小石が足裏に入ったとき手を使わずに出し易いからだと云う。後で出てくる筏師の図のところに描いてあるので参照してほしい。
 尻当は尻皮とも云う。ニク(カモシカ=羚羊)の皮である。

青年時代

(図8.1)自分の青年時代(20歳頃)は、図のように市木木綿のハンチャを着て、腰鋸(コシノコ)と手斧(テヨキ)を持ち、足に単袴を履いた。左手にもっている土佐ヅルが出現してから大トビが廃れたとのことである。
 竹柄の信州トビは軽くて使用便利である。
 信州トビでも直径1寸2分位から1寸以上が普通であった。これは材木が一般に太かったから道具も大きなものが必要であった。現在は材木もだんだん小さくなって、従って道具も一寸ものが少なく、8分位が一般化した。

(図8.2)その頃の若人に鳥打帽子を前高にすることが流行したことがあった。帽子の中に?型の物を入れて高くしたものだ。

(図9)なお、又その頃は架線工事も少なく、スラ出しにも藤かずらを使用する場合がかなり多かったから、ペンチの必要を感じなかった。されど今は、急激に針金使用が多くなったため、図のようにペンチは必須道具となった。服装も洋服着用が殆どとなったため、古着を作業用にしてズボンはきの姿が多くなる。ヨキを差すのも帯のときは良かったが、皮ベルトになれば差し難く、(9.2)のような特殊ベルトが考案された。夏のランニング姿も今時のことなり。裸以外は単襦袢で働いた。
 ハンチャは、木綿手縫い、縞物、絣が多かった。
 帯は普通巾の紺木綿そのままで使った。勿論一般の人みんなまでが同じ服装でないことは申すまでもなく、クケ帯は道具を差すのに都合がよい。

若人

(図10.1)前にも書いたごとく、日常着が老若共洋服化したため、その古着を作業用にする結果、ズボンも上着も立派になった。しかも腕時計を持たない人が不自然に見えるようになり、作業中も手拭い、ハンカチで首に括りつけている若人が多くなった。

(図10.2)昔の手甲は、手袋(軍手)に変わり、夏・冬ともに若人の殆どが使用するようになった。ゴム引き軍手を履くことは、滑り止めの効果があるから普及が多くなる訳だ。手袋使用は、草刈り、薪切りの女人にとっても、必ず使用しなければならない有り様である。底のない足袋をはいた祖母の若い頃から約100年の経過は、こんな変遷を見たのである。
 昭和20年の敗戦から数年を経て物資豊富となり、生活にゆとりを生ずるようになるにつれ流行もあって、男子の長髪と女子のパーマ掛けが97・8%まで普及する。斯く云う自分も32~3年振りで長髪のハイカラに扮する踏ん切りをつけた。(1962年1付記)

(図11)地下足袋の出初めは、大正10年からである。最初の物は足袋の裏はゴム底を外縫いに付けたものであった。それまでは、足袋でも労働用として外縫い型があった。普通型でも専売足袋と云うて図のような物があった。ネル裏でないから、温味が少なかった。

シゲ笠(菅笠)

(図12)シゲ笠(菅笠)について
 昭和2、3年頃の自分を筏師風体を想起して描いた図である。夏の盛りでも、脛6分位の繋ぎ綱一本と4分位の張り綱三本位と斧(ヨキ)を桿と櫂に括りつけ雨天の時は笠蓑を着用した。、帰途はそれも括りつけて担ぎ、相野谷道7里(約28km)を歩いて帰った。
 図12のようなシゲ笠(菅笠)は、少々重いという欠点はあるが、丈夫な竹の骨が張ってあるので、檜笠のようにペラペラと風に吹き返されることがなくて都合よく、筏師の多くは是であった。
 宮井下流に行くと風の強いこと、いつでも難所の瀬を下るとき、笠が裏返しのようになると本当に困ったものだった。
 蓑は、シゲ(菅)作りと藁作りが主であった。
 斧(ヨキ)は株ヨキと云っても四角株の低いものが一般的であったが、力ン(?)を抜くに都合のよい株の長いものを作った。自分の知る範囲では、長株斧の作りは自分が嚆矢であると思う。
 足は単袴に素足、草鞋ばき(知恵の一つである権三草鞋)。

・注-嚆矢(コウシ)-ことの始まり






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