十津川探検 ~十津川人物史~
天野 敬二郎
天野 敬二郎 明治22年(1889)平谷藤森嘉四郎の次男として生まれる。
 生来頭脳明晰、十津川中学文武館(現十津川高校)を経て大正4年(1915)名古屋大学医学部の前身愛知医学専門学校を卒業と同時に先代天野源二郎の養嗣子となる。爾来大阪市住吉において内科医院開業、又大阪府立女子専門学校の講師として生理及び衛生学を講ずると共に、同校の校医、大阪の帝塚山学院の校医を務められた。
 また忙しい開業の間をぬって、刻苦勉励して昭和14年(1939)「知能と身体との発育関係」に就いて論文を提出、医学博士となった。
 日々内科の診断・治療に優れた手腕を発揮すると共に、繁忙な業務の傍ら学位をとるなど篤学の内科医師であった。又医師としての力量は勿論物事の判断力に優れ、その措置には極めて敏速であった。
 友情に厚く、故郷十津川を思う気持ちは特に強く、そのため郷人にして就職その他の問題で恩恵に浴したものは数知れないという。
 文武館同窓会・関西十津川郷友会の事は勿論、十津川人の世話を随分された。たとえ自分の身辺にどれだけの悩み事があっても、そうしたことはすべて秘して一切語らず、訪れる人があれば誰をも拒まなかった。又地域の人々の信頼も厚く、PTA会長や民生委員の煩職を引き受け夫れ夫れに活躍された。大阪在住の年月の長いにも関わらず、十津川人に出会うと何時でも十津川弁丸だしと言った風の人であったという。
 昭和28年(1953)6月4日突如脳いっ血に冒され、一言も口のきけぬまま、2カ月後の8月4日、64歳を一期として幽明境を異にされた。
 聞くものみなその死を惜しんだという。
 中学の同級生、中東彦福(東中出身・新宮高校教諭)は、
 故医学博士天野敬二郎君の霊前に捧げ奉る
 “君はなほ生くべかりしを世のために
    為すべきことの多からずやは”
 “君十一我十三の春なりき
    あくがれ高く文武館に入りしは”
と級友の死を悼んだ。
 

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