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明治14年(1881)10月3日平谷、中川行保の次男として出生。
平谷小学校から文武館(現十津川高校)に満9年7カ月という異例の年齢で入学、日本中学、一高、東大法学部に進む。38年(1905)卒業、逓信省に就職。以後順風満帆の官吏生活を送り、大正7年(1918)7月一躍運輸局長となる。4年11カ月の局長時代、モットーとしたことは、国鉄の使命に鑑み、営利第一主義を排し公益優先主義とすることであった。現場従業員のため休憩所や浴場を設置する等、数多くの改革をし業績を上げた。凡そ彼の仕事ぶりは事を運ぶに当たり、関係者の意見をよく聞き方針を決定、指示を与え決裁し、上部に手続きをとり後は任せきりに実行させ、事が成っても自分の手柄にすることはみじんもなかったという。従って部下はこの局長の為ならと仕事に精励したという。
12年(1923)関東大震災のため政変があり、山本権兵衛内閣誕生、中川はこの時請われて鉄道次官に就任したが、年わずか43に達したばかりの青年官吏で如何に有能であり異例の昇進であったかが知れる。しかし震災の善後策に奔走している最中12月、虎ノ門事件(国会開院式に向かう摂政宮(昭和天皇)の車に難波大助が発砲)のために内閣総辞職、中川も内閣と運命を共にし辞任した。
しかしこの有能な人物がそのままにしておかれるはずもなく、辞任直後東京地下鉄副社長、続いて帝国鉄道協会副会長等に就任、昭和3年(1928)産業合理化連盟を組織し会長となる。翌年米国繁栄使節団を組織、日本産業界のトップ25名の団長として米国各地を視察、その後の日本産業進展に大いに寄与した。後、鉄道同志会会長をはじめ東京近郊の私鉄重役、交通関係団体等多くの役職に就き功績を挙げた。他方東大講師・東京交通短期大学学長等を務めた。中川は官吏としては最高位の次官となったが、又一流の財界人、教育者でもあった。郷里十津川を想う情は格別強く、関東十津川郷友会会長を長く務められた。大正年代に起こった火災による文武館の存廃問題にはいたく心をくだき、再建に尽くした。この時期宮内省から文武館拡張のためと全国に例をみない“金500円”が下賜されたが、これは主として中川の力によるものであった。
昭和39年(1964)1月19日齢83歳清廉の生涯を閉じた。(長男良一は世界に名機零戦のエンジン開発者として有名、後、日産プリンス副社長となる。) |
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