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●遺髪碑(平谷字蕨尾) |
文政10年(1827)12月3日、永井千葉定之助の五男として生まれる。
後、平谷藤井広告の養嗣子となり藤井姓となる。
資性剛毅勇断にして武を好む。
弘化2年(1845)18歳の時、江戸に上り鏡新明智流桃井春蔵直雄(江戸三大道場の一、直雄の子直正は、明治15年(1882)11月文武館剣術教授に来郷)の門に入り剣術を修行。安政元年(1854)上京、梅田雲浜始め諸国憂国の志士と交わる。文久3年(1863)6月「十津川郷士朝廷に忠勤を励むべし」との御沙汰書を拝し、一同感激上京、禁裏御守衛に従うや、織之助これと行動を共にする。元治元年(1864)5月、勅命により文武館(現十津川高校)創立されるや、織之助生徒募集の任に当たる。
討幕の風雲いよいよ急を告げる慶応3年(1867)8月、土佐の中岡慎太郎の策を容れ、吉田正義等と相計り土佐藩邸を借り受け、我が郷兵50名銃隊操練を行い、織之助同郷の前田正之とこれを総括する。同年12月高野山義挙にはこの十津川隊を率い、軍監兼隊長として出陣する。明治元年(1868)2月、十津川御親兵人選方・軍事監司及び郷中人数監察を命じられる。
同年6月、北越戦争に際し、十津川郷士は御親兵として2中隊208名が越後に出兵するが、織之助は第1番中隊司令官補助嚮導官として出陣、各地に奮戦する。7月29日、長岡城再攻撃に当たり城の大手千住口に向かい、両軍激闘中、織之助腹部に敵弾を受ける。直ちに北魚沼郡小千谷村の軍事病院に送られ手当を受けるが傷すこぶる重し。織之助到底回復の見込みのないことを知り、看護兵のすきをうかがい即夜自刃する。享年41歳。
真に十津川郷士の名に恥じない潔さに、一軍挙げてその死を悼んだという。同地の極楽寺に葬る。
明治2年(1869)6月、北越の役の戦功により高60石永世下賜せられ、明治3年(1870)12月、積年王事勤労につき、目録金200両下賜される。
明治38年(1905)7月、特旨をもって正五位を贈られる。
小千谷極楽寺境内の墓地には、宮内大臣伯爵田中光顕の文及び書の碑が建っている。
大字平谷字蕨尾の旧街道端には藤井織之助遺髪の墓がある。 |
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