十津川探検 ~十津川人物史~
中井 哲太郎
中井 哲太郎 文久3年(1863)9月、小原に生まれる。
 文武館(現十津川高校)に学び、明治17年(1884)十津川郷士半数をもって創設された、皇宮警察の門部(警察官)となる。やがて制度の改革に伴い転職、帽子職を営むが“武士の商法”とて成功に至らず帰郷、その後、郡役所・役場に勤め生計を樹てた。
 明治22年(1889)5月、26歳の若さで村会議員となる。この年8月、村は大水害に見舞われ壊滅的大被害を受けた。
 議員中井は村の危急を救うべく、東京の東武(永井出身、後の農林次官・北海タイムス創始者、当時学生)と善後策に奔走、北海道移住に決まるや、自らも渡道、新十津川の開拓に従った。入植後間もなく村で初めてプラオとハローを使って開墾、秋には馬で大根・キャベツを滝川・砂川に売り歩き、翌年には馬車と馬橇により食料輸送・角材、材木輸送をしたという。明治26年(1893)、東武の唱導により雨竜郡深川芽生(メム)の開拓に、移住民100戸団体を新旧両十津川から募集されたが、その一員として東武と共に深川村(現在の深川市)に転住した。当時の深川は原生林生い茂り、熊が出没、時に人畜に危害を加えるという太古のままの姿であった。この様な中にあって中井は寒暑特に冬の寒さの中、孜孜営々として開墾の業に従い、今日の深川の基礎を築いた。その功績は誠に大なるものがある。(深川村の行政は始め新十津川村の所管であり、役場も新十津川村にあった。村名も“雨竜新十津川”と決められていたが使われることはなかった。)芽生入植後、教育の必要性を感じた東武始め有志により、明治28年(1895)“菊水小学校”が創立され、校主には中井が就任した。
 深川市には有形文化財“芽生神社”があり、境内に「十津川100戸団体開拓記念碑」が建てられている。中井は深川村議会議員・深川町収入役の要職に携わり、又深川農業協同組合の基礎を作り、土功組合理事として潅漑事業に貢献した。昭和12年(1937)、芽生の東武旧邸跡に「東先生開拓頌徳碑」が建てられたが中井は建設委員長を務めた。東武によって中井哲太郎翁手記「深川風土記」が、田中清太郎により「深川・メム開拓の祖中井哲太郎傳」が刊行された。
 昭和27年(1952)2月21日、苦難に耐え、積極的に生きた生涯を閉じた。90歳の長寿であった。没後“深川町開拓功労者”として感謝状が贈られた。
 

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