十津川探検 ~十津川人物史~
岡 豊若
岡 豊若 安政5年(1858)12月22日、内野青木良平の三男として生まれる。
 文久3年(1863)父良平は里生(庄屋)として里民20有余名を率いて天誅組に参加、各地に転戦した。豊若幼年時の思い出として、ある夜就寝中人声に目覚め、急ぎ起き上がり恐る恐る眺めると近隣の壮士8~9人が集まり、父はその車座の中に居て畳の上に盥を置き、松明皓皓たるなか古刀を研いでいたという。
 長じて、郷校文武館(現十津川高校)に学び、卒業後教育の道に志し、学制発布による草創期の上野地小学校を始めとし、折立・今西・五百瀬・山崎・葛川・小原・上湯川・小湯各小学校・母校文武館で教鞭をとり、村内各地の子弟教育に情熱を注いだ。
 明治23年(1890)岡重政の養子となり岡姓となる。教職を離れた後、十津川村役場・吉野郡役所に勤務した。郡役所在勤中明治22年(1889)8月紀和大水害に遭遇、この時に当たり管内12ケ村(天川村・大塔村・野迫川村・北十津川村・十津川花園村・中十津川村・西十津川村・南十津川村・東十津川村・宗檜村・南芳野村・賀名生村)の被害状況を克明に記録した「吉野郡水災誌 全11巻」を著した。
 吉野郡内各村共甚大なる災害を被り、交通・通信途絶応急処置に追われる中、よくもこれだけの資料を収集整理し、しかも水害わずか2年後に書物として出版したことに驚嘆のほかはない。災害の記録として極めて貴重且つ重要なものであると言われる所以である。
 他に「日露戦役吉野義勇之鑑」等の著書がある。
 学校退職後、某小学校に問題起こりその解決の為復職を依頼され、再び校長として処理に当たったこともあったという。
 史書を好み、村の歴史史料をあまねく渉猟し当時“岡先生程村の歴史に通じた人はいない”と評されていた。又好んで漢詩や歌を作り嵩南と号した。こよなく酒を愛し、山道を歩くのに常に腰に一瓢を携えて居たと言う。十津川村より「村史編纂委員」を委嘱されたが、病のため完成を見ず、昭和7年(1932)12月26日、その才を惜しまれながら74歳の生涯を閉じた。
 内野には文武館長浦武助撰文の墓碑が建っている。

 某愛弟子に与えた一首
  “とどめおけ唯むら肝の至誠(まごころ)を
     ふみの林の花の咲くまで”

(注)「十津川記事」下60ページより引用
 明治二十四年四月
 「吉野郡水災誌」十有一巻成ル。本誌ハ郡衙雇岡豊若客年二月以来ノ起草ニカカルモノナリ。
 

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