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明治17年(1884)高津に生まれる。
上野地小学校を卒え、文武館(現十津川高校)に学び、後奈良県師範学校を明治37年(1904)12月卒業、翌年1月吉野郡高見村尋常小学校に奉職する。大正9年(1920)3月まで同校に在職し後依願退職、翌10年(1921)3月家郷に帰り上野地尋常高等小学校に9年間、花園校に1年間、都合約26年間、訓導又は校長として勤め、昭和6年(1931)3月家事の都合により退職。
その後は家に在りて、十津川村北和信用組合監事・十津川村信用購買販売利用組合長・十津川村木材同業組合代議員・中野村区森林組合長・奈良県森林組合連合会理事・十津川村漁業組合初代組合長・中野村区長・十津川村会教育委員・十津川村経済厚生委員・十津川村議会議員等を務め、昭和15年(1940)には名誉助役になるなど村治に尽力する。
十津川分水補償問題、上野地中学校建設問題には何れも委員として努力する。又瀞八丁を守るためダム建設に反対運動をする等、郷土の環境問題にも強い関心をもっていた。
教育者として如何に信望を得ていたか、退職後も十津川村教育会の名誉会員として従前の副会長を継続し、昭和9年(1934)には従来村長の職であった会長に推挙され、4期8年間その任にあったことは、そのことを如実に物語っていよう。
昭和11年(1936)財団法人村立十津川中学文武館の理事長となり、村営としては将来の維持経営の困難なることを痛感、十津川出身県会議員野尻清寳氏等の協力を得て、県営移管に力を尽くし、昭和17年(1942)ついに県立となした。戦後の村の経済状態を考え合わせたとき、この時期県営となし得た事の意義は誠に大きい。昭和18年(1943)2月11日教育功労者として奈良県知事より表彰状とともに金一封が贈られた。
温厚にして謙虚、極めて几帳面な性格で、50年間日記を欠かすことがなかったという。和して動ぜず、意志強固の反面、家に在りては極めて子煩悩であった。ある時、散髪をしに出掛けたが、可愛い孫に土産を買うのに夢中になり、肝心の散髪を忘れて帰り家人に大笑いされたことがあったという。又季節に応じた花見・釣・紅葉狩り・狩猟などを楽しむ多趣味の人でもあった。
昭和43年(1968)1月24日84歳で没した。 |
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