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文久3年(1863)、天誅騒動のあった年、小原中上家に生まれる。
幼少のころ故あって、山手の玉置奉悦医師の養女となる。
容色衆に優れ、まれに見る美女であったためか、当時
“山手芳野は 日輪さまよ
光輝くどこまでも”
と謡われたと言われている。
豊臣秀吉は“日輪の子”と称せられた後に関白となったが、日輪と言われた芳野は如何なる女性であったろうか。
17歳のとき、山崎の医師佐古嘉彰と結婚するが、不幸にして21歳で夫と死別する。寡婦となった芳野は長男高義(当時4歳)次男洋彰(当時1歳)を、夫の姉即ち伯母に養育を託し佐古家を去った。大阪に出て女医を志し大阪医学校に学んだ。その後明治27年(1894)日清戦争のころ、大阪赤十字病院の看護婦として勤務していた時、たまたま傷を受け入院していた安井男爵と知り合い、千葉貞幹(永井出身 長野県知事)の斡旋により結婚、安井家に入った。長男英二は幼年のころより頭脳明晰、東京帝国大学を主席で卒業、内務省に入り、内務省地方局長・岡山県知事・大阪府知事・文部大臣・内務大臣等歴任した。
戦前、大臣大将の出なかった県は、沖縄県と奈良県だけであったと言われるが、奈良県では大臣は出なかったが、大臣を生んだ母親が出たと当時話題になったと言われる。100余年の昔、文字通り秘境十津川を出て男爵夫人となったのは、天性の容姿に加え天与の才があり、それにその時代の女性としては珍しく自由闊達に生きる性格が加わったためであろう。
それにしても若くして2人のいたいけな子供を残し、家を出た彼女にとっては幾多の苦難が、また母に残された2人の子供にとっても人知れぬ悲しみ苦しみがあったのではなかろうか。昭和15年(1940)7月23日朝日新聞の報ずるところを、要約すれば、「謹厳居士の新内務大臣に安井英二氏がなったが、…新大臣の義兄(高義)が1人、十津川村山崎に村人から慈父の如く慕われつつ医師を開業している。高義氏は養母の伯母が、生母を訪ねてはいけないという言葉を固くまもっているが、義弟の大臣就任に50年振りに心動いているのではないか」と結んでいる。はたして兄弟の対面はあったのであろうか、その後の報道は不明である。
芳野は91歳の天寿をまっとうして生涯を終えた。 |
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