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明治43年(1910)川津に生まれる。
昭和3年(1828)3月、十津川中学文武館(現十津川高校)卒業後、法政大学文学部法律科入学、昭和9年(1934)同校を卒業する。
経済界の不況時代、昭和10年(1935)広告会社日本電報通信社(現電通)入社、新聞広告の担当として営業部に配属される。
やがて始まった太平洋戦争中には一度ならず二度までも召集され、戦場に立たされたが、南方で終戦を迎え無事復員、直ちに電通に復職した。
昭和28年(1953)日本初の民間放送の誕生と共に、同社にラジオ・テレビ局が開局、中畑は初代部長に就任、未知のテレビ部門で大いに手腕を発揮した。その後営業連絡局長・常務取締役・副社長と昇進を重ね、昭和48年(1973)推されて遂に社長となる。
局長時代、某週刊誌に“絶対に社長になれない局長ナンバー1中畑”と書かれたことがあるが、間もなくして社長となったのは、一重に中畑の人柄の良さ、勤勉さ、先見性によるものとされる。
社長就任時は、各会社が利益追求の為競って他業種に進出する中で、広告一筋の経営を続け、今日世界広告業界の雄と言われる電通の基礎を築いた功績は、大いなるものがあるといわねばなるまい。
中畑は十津川郷士末裔の典型的性格で、無口で恬淡[てんたん]、後輩の面倒もよくみたという。学生時代から関東十津川郷友会の幹事となり、戦後は中断されていた郷友会を東季彦(日大学長)会長、中畑義愛幹事の体勢で復活させた。その後、会長となり益々その充実を図り、十津川村・新十津川町をはじめ、関西・中京・奈良等の各郷友会との連携を密にし、会の発展に尽くされた。郷友会と言えば、“中畑さん”と言うように人徳が人を呼び、温厚で謙虚な人柄から“畑さん”のニックネームで多くの人から慕われた。
昭和52年(1977)経営の第一線から退き相談役となった。
同年広告業界での業績が認められ、勲二等瑞宝章が贈られた。
平成3年(1991)7月、急性心不全のため生涯を広告業界の為に尽くした81歳の生を終えた。
同年10月、長年の功績に対して従四位が贈られた。 |
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