十津川探検 ~十津川人物史~
前倉 温理
前倉温理墓表 文政10年(1827)4月5日、永井に生まれる。
 資性温厚、思慮深く、緻密な頭脳の持ち主であった。
 嘉永6年(1853)米艦浦賀に来航、天下騒然となるや、温理は同志と共に国事に奔走せんと謀る。文久3年(1863)4月郷友と京師に上り、十津川郷の由緒復古につき奔走し、結果、禁裏御守衛の任を仰せ付かる御沙汰を拝する事となる。以後温理は郷士の屯所にあって最も重要且つ困難な経理を担当し、巧にこれを処理し、衆望に応えた。
 上京間もなく政変起こり、郷士支配の七卿長州落ちの事あり、大いに混乱したが温理は上平主税・千葉左中等とその対策に努力し、伝奏支配となり事なきを得た。
 上京後の郷士の宿舎は当初寺院・民家等を借り受けていたが不便の為、元治元年(1864)、藤井織之助・吉田正義・深瀬仲磨等と相謀り、新築を計画、同年11月新烏丸切通、円満院宮の所有地を拝借、慶応元年(1865)春着工、4月落成郷士はここに移った。この屯所は「十津川屋敷」あるいは「京邸」と呼ばれた。
 温理は平生郷中文武の衰退せるを憂え、振興が急務であることを唱え、儒官中沼了三により郷立文武館(現十津川高校)が創立されるや、常にこの学校に関心をもち、帰郷の際には必ず文武館に立ち寄り、好んで生徒たちに靖献遺言[せいけんいげん]を誦読したという。慶応2年(1866)5月、薩摩藩邸に西郷隆盛を訪ね、練習用銃器の借り入れの交渉を為した。慶応3年(1867)4月、新式の我が郷兵隊を組織し実地の用に立てるべく、前田正之と相謀り江戸薩摩藩邸において平元良蔵に従い、洋式銃練を練習せしめた。又12月の高野山義挙に際し温理は密に宿舎の2階に籠り、パトロン弾薬数万発を手製し、高野山の陣営に送ったという。明治2年(1869)十津川御親兵人選方・軍事監司・郷中人数監察を命じられた。明治3年(1870)12月、積年王事勤労につき、金200両を賜う。
 明治5年(1872)十津川郷総代、明治7年(1874)十津川一円の副戸長となる。明治8年(1875)十津川郷士族賞典祿5,000石奉還に対する御下賜金10万余円の保護取扱担当を嘱託される。
 明治19年(1886)12月2日、59歳にして病没した。永井に葬る。
 明治31年(1898)従五位が贈られた。
 

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