十津川探検 ~十津川人物史~
西田 正俊
西田 正俊 明治13年(1880)5月、西田直人の次男として小森明円に生まれた。
 明治27年(1894)4月、郷立文武館(現十津川高校)に入学、3年在学中、当時県立郡山中学校(現郡山高校)の分校であった五條中学校(現五條高校)に転校した。転校後家運傾き学資が途絶えた為、已む無く中途退学、五條市の磯田弁護士事務所の事務員となる。
 明治32年(1899)10月下旬、磯田氏の東京転出に伴い上京する。間もなく明治法律学校に入学、明治35年(1902)同校を卒業する。
 明治37年(1904)税務官吏となり、香川・高知を経て東京へ転任したが、病にかかり、明治41年(1908)10月、職を辞して郷里に帰った。
 やがて新宮市に居を移し、健康回復後新聞社に入る。社員として奈良へ赴任するが、暫らくして再度新宮市へ帰った。
 晩年は神職として、男山八幡宮及び那智・新宮両神社に務めた。
 西田は“黒潮”と号し文筆を能くした。早くから十津川村史の解明に情熱を傾け、昭和7年(1932)10月、多年に亘る研究成果を「十津川郷」として刊行した。翌年(1933)12月、続いて「十津川郷士及亡命志士列伝」を著した。更に「十津川郷第2版」の出版を計画したが、時局の変動等により目的を果たす事が出来なかった。
 昭和22年(1947)5月、郷史究明に畢生[ひっせい]の努力を傾けた生涯を終えた。
 終焉の地は新宮市、享年67歳であった。
 西田の著した「十津川郷」は昭和7年11月、黒田侍従十津川御差遣の砌[みぎり]、十津川村より侍従へ奉呈された。尚故人の生前果たされなかった第2版は昭和29年(1954)十津川村史料編輯所(浦武助)によって発刊された。
 西田の生地小森明円は、往昔南北朝時代大塔宮護良親王御潜行の働、尼明円(みょうえん)なる者が橡[とち]粥を宮に差し上げたと伝えられ、地名由来もこの事による。付近には尼にまつわる伝説地もある。西田の郷土史への関心探求心はこの様な環境の中で育ったのではあるまいか。
 「十津川郷」は600頁に垂[なんな]んとする浩瀚[こうかん]な郷土誌であり、十津川の歴史・地理・社会・産業・宗教・人材・言語・災害移住等全般に渡り、特に明治維新時の郷の動き、郷士の働き等広範にしかも克明に記述され、今日十津川を知る貴重且つ重要な文献となっている。史料収集編纂にどれだけの時日と努力を要したか、思えば敬服の外はない。
 

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