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天保10年(1839)山手に生まれる。初め信之進、後皓平と改める。
資性沈着冷静にして知略あり、と評せられた。慶応3年(1867)12月高野山義挙に際しては、十津川に参加要請があった。郷内には軽挙して天誅組の轍[てつ]を踏むことを恐れ、参加に躊躇[ちゅうちょ]したが、この時皓平は「速やかに高野山に行き事の成り行きを確かめ、又一方京に上り在京者の意見を聞くべきなり。」と進言、ことはこのことに一決、よって十津川は立場を誤ることがなかった。
明治元年(1868)2月十津川御親兵軍事隊長を命ぜらる。同年4月、明治天皇の大阪行幸があり、十津川郷士は供奉仰せ付けられ、東御堂(東本願寺南御堂難波別院)において撃剣の天覧試合が催された際、郷士15名と共に皓平も選ばれて出演した。5年(1872)兵制改革により帰郷、9年(1876)三小区副区長、13年(1880)宇智吉野郡役所に勤め、主席書記となった。たまたま明治22年(1889)8月の紀和大水害に遭遇、郡長玉置高良遭難死の為、郡役所の事務一切を処理、管下羅災民の窮状打開には、文字通り寝食を忘れて東奔西走、とりわけ、被害甚大であった十津川の羅災者救済に当たっては北海道移住に努力、遂に600戸2,600人の移住による新十津川開村の実現をみた。25年(1892)新十津川戸長更谷喜延辞任旧郷へ帰村後、新十津川村内に争い起こり、そのため請われて皓平は渡道、戸長となる。
皓平の戸長となるや、村は皓平の徳望により静穏となり、治績は大いに上がった。村はその功労に報いる為、畑地1町7反余を贈った。
後手腕を買われて夕張他4郡長となり、令名を謳われた。
皓平は又新十津川にあって、上徳富土功組合の創設に力を尽くし、水田開発の先駆をなし、あるいは文武館の館長を務める等、常に勧業・土木事業・又教育に思いを寄せ、その進展をはかった。これらの功績に対し、従六位に叙せられ、大正6年(1917)5月藍授褒章が贈られた。8年(1919)12月5日、謹厳な80歳の生涯を閉じた。村は葬るに村葬の礼をもってした。
因に皓平の長男直一は、水害当時東京遊学中であったが、故郷の窮状を救うべく、移住地の視察や、同郷の東武と共に、移住の取りまとめに奔走した。やがて自らも移住、第7代新十津川村長となった。
今も語り継がれる水害の状況をうたった「故郷の残夢」は、直一の作である。 |
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