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昔、小森の在[ざい]で、一番肝っ玉が太いといわれたのは、明円[みょうえん]の前迫[まえざこ]のじいさんじゃった。
ちょうどその時分、十津川の川上にあたる赤谷の奥(大塔村宇井の奥)には、山女郎が棲んでいるということじゃった。
このうわさを耳にしたじいさん、
「なになに、化けもんがいるちゅうか、そりゃあ、おもろい。わしもその山女郎ちゅうもんに会うてこよう。」
と、人の止めるのもきかんと、たった一人で赤谷の杣[そま]小屋に泊りこんで、木を伐ることにしたそうな。
杣小屋に泊りこんだじいさん、夕飯をすませ、あれやこれやとあしたの用意をととのえ、さて、こんどは斧の手入れじゃと、ゴシゴシ斧を砥[と]ぎはじめた。その時分は、もう夜もけっこう更けておった。それでも、じいさん、なんべんもなんべんも刃の切れ具合を指先で確かめながら熱を入れて砥いでおった。
すると、外で何やら声がしたようじゃった。じいさん、耳をすますと、上の山の暗やみからじゃろう。
「ヒッ、ヒッ、ヒー。」「ヒッ、ヒッ、ヒー。」
と、それはかん高い女子の笑い声がするのじゃ。もう、なにもかも深い眠りについて、物音一つせん山にひびくその笑い声は、なんともうす気味悪いものじゃった。
「おお、いよいよ化[ばけ]もん、おいでなすったか。」
と、じいさん。あわてて砥いだばっかりの斧を小屋の入口にぶら下げ、どんどん火を焚き、縞布団をすっぽりかぶって般若心経を誦えたのじゃった。
「マカハンニャハラミッタシンギョウ、カンジーザイボーサツギョウジン ハンニャーハーラーミッタ……」
「ヒッ、ヒッ、ヒー。」「ヒッ、ヒッ、ヒー。」
気色の悪いその笑い声は、いよいよ小屋に近づいてきた。
じいさん、これはいかんと、前よりもいっそう声を大きく心経を誦えたのじゃった。
「カンジーザイボーサツ、ギョウジンハンニャー ハーラーミッタ……」
女の笑い声が、ついそばまできたと思われたとたん、入口に吊したむしろを押しあげて、じっと小屋の内をのぞく者がいる。布団の中からそっと戸口をみると、長い黒髪をきれいにときつけ、お歯黒をつけた女子じゃった。それはまっこと、この世のものとも思われんきりょうよしじゃった。そのおなごが、ニタッーとうす笑いしたときにゃあ、もう身の毛がよだつおもいじゃった。
じいさん、ガタガタ震えながら、ただもう一心に祈りつづけるのじゃった。
「ハンニャハーラーミッタ、ジーショウケンゴウ ウンカイクウドー イッサイ……。」
おなごはやがて、
「ヒッ、ヒッ、ヒー。」
「ヒッ、ヒッ、ヒー。」
と、うす気味悪い笑いを残しもうて深い奥山へ消えていったそうな。
前迫のじいさん、その夜が明けきるのもよう待たんと、あたふた赤谷を下りて逃げ帰ったということじゃった。 |
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話者 |
小森 |
西田 ワサノ |
再話 |
湯之原 |
大野 寿男 |
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