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昔、熊野街道の果無[はてなし]越えには、追いはぎがたいへん多かったという。それで、命を落とす人も多かったという。そこで、追いはぎを防ぎ、なくなった人を供養するために、大津越[おおつご]えの切畑屋[きりはたや]が観音像を彫り、観音堂を建立したのだという。
ある年、お燈明の火があまって、観音堂の一部を焼いたことがあった。そのとき、みる人にみてもらったら、熊野街道の桑畑から八木尾まで、観音像を建てるようにと言われたそうじゃ。
観音像を建てるという話がもち上がると、多くの人々からの寄進があり、三十三の石像は、すべて寄進によって彫られたそうだ。
こうして造られた観音像は、桑畑の柳本から、果無峠を越えて八木尾の間に人々の奉仕によって、大正十二、三年に据えられたものじゃ。
石像を運んだり据えたりする仕事は、すべて桑畑の人々がやったのじゃよ。
三十三の観音像を全部据え終わると、魂入れということになった。そこで、那智神社の大阿闍梨[だいあじゃり]、「中森了三」という方にお願いして行われたのじゃ。
この時、大阿闍梨は八木尾から観音像一つ一つに魂を入れて行かれた。途中からは、桑畑の青年団がかついできたかごに乗り、さらに観音像一つ一つに入魂していき、ついに果無峠を越えて、山口という茶屋で一晩泊ったそうだ。
次の日、残りの観音像に魂入れを無事終えたのじゃ。
観音堂の所に「総開眼供養観世音菩薩大阿闍梨中森了三」と書いた標木が建ててあったことをおぼえているよ。 |
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