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まだ、今のように自動車道がついていない時分じゃった。
旭[あさひ]の中谷の在所に近い道の端に、なんでも根元のさしわたしが二尺(およそ六十センチ)あまりもある古い松が立っておった。この松のうらは八、九間(およそ十五、六メートル)もある切りたった崖で、その下には旭の流れが渦を巻いておった。
わしは、こどもの時分、そこを通ったことがあったが、そのとき、この松の枝叉に大きな白石が一つ、ズシリとのっていたのを覚えておる。
いっしょに歩いておったおやじが、
「ありゃあ、亀治郎先生がのせたんじゃよ。……昔、この村に中井亀治郎という剣の達人がおったんじゃ。この人の連れ合い(妻)は中谷の人じゃったから、よう、こっちへも来とった。
あるとき、先生は、何を思うたか、下の谷へ下りて、一かかえもある白石を拾うて来ると、下駄ばきで、この松にヒョイ、ヒョイ、ヒョイと登り、あの枝の元へのせたんじゃ。」
と、言うてくれたもんじゃ。
わしは、亀治郎さんという人は、ただの人じゃなかったなと、つくづく思うたもんじゃ。あれから、もうかれこれ七十年、あのときの道も、それから、あの松も今はみんななくなってしもうたわ。
昔、狩川[かりかわ]というてな、この十津川じゃ、伐[き]り出した材木は谷川に落として流し、大川に集めたもんじゃ。大川に集められた材木は、そこで筏に組まれて新宮へ下っていったもんじゃ。
この旭川でも、その狩川はようやったもんじゃ。
あるとき、大雨が降って谷川が増水したので、
「おうい、きょうは狩川じゃあぞ。さあ。みんな出た、出た。」
と、男衆はめいめいにとびぐちを担[かつ]いで川へ走った。ちょうど中谷へ来ておった亀治郎さんも男衆に交じって狩川へ出てきた。
せまい川幅いっぱいに溢れた大水は、ゴウゴウと音を立てて流れている。川上の男衆が下す材木は荒波にもまれ、押し合いへし合いして流れた。
さっきから、このようすを見ておった亀治郎さん、手ごろな材木を見つけると、いきなり、ヒョイとその上に跳び乗り、材木の先っちょにとびぐちを打ち立て、まん中あたりにすっくと立ち、腕組みして濁流に乗り出した。
岸の男衆が、
「おうい、だれじゃ。危ないぞ。」
「やめろ、おりろ。」
と、悲鳴に似た大声で叫んだが、当の亀治郎さん、振り返るようすもなく、荒瀬も岩場も体をよじって自由自在に舵[かじ]をとり、下[しも]へ下へと乗り下ったものじゃった。
男衆は、
「なんというおとろしい奴じゃ。ありゃあ神わざじゃ。命いくつあっても足らんわ。」
と、あきれかえった。
昔、十津川の衆が立里[たてり](野迫川村)の荒神詣[こうじんもうで]をするときにゃ、てくてく歩いて大塔の宇井を過ぎ、川原樋川[かわらびかわ]を上って野迫川の池津川に着き、そこから険しい山道を立里まで登らにゃあならなんだ。
亀治郎さんも、あるとき、数人の仲間たちといっしょに、立里詣に出かけたのじゃ。仲間のひとりが、そのときのことをあきれ顔にしゃべっておった。
「池津川から立里へ登る山道は、まっことえらかった。ところが、あの亀治郎さんときたら、道沿いの立木によじ登り、下の木から上の木へとまるで猿のような身のこなしで上がってしもうた。わしらも負けんようにと地面を急いだが話にならん。いくらも行かんうちに置いていかれてしもうた。わしらがやっとのことで荒神さんへ着いたときにゃあ、亀治郎さんは、とっくのむかしにお参りを済ませ、昼飯も食うて、ひとねむりして起きたとこじゃった。」
亀治郎さんは、杣夫[そまふ]になって杉や桧の大木を伐りに出たこともあった。その連れのものが、こんなことを言うておどろいておった。
「木を伐り倒すとき、たまに風向きなどで、ほかの木に枝がひっかかって地面に倒れんことが起こる。もし、そうなったら、杣夫はあわてたり、途方に暮れたりするもんじゃけんど、あの亀治郎さんは違う。そんなとき、猿みたいにスルスルと倒れかけの木によじ登り、じゃまになる枝を切り払うが早いか、乗っている木が地面に落ちるより一瞬早く地面に飛びおりるんじゃ。そして、けろっとしておるんじゃよ。」
亀治郎さんが、文武館(旧十津川中学=現十津川高校)で剣道を教えておったころにも、おもしろい話がぎょうさんある。
そのころ、武者修行じゃいうて、亀治郎さんは、よう、よその道場へ試合に行ったそうじゃ。
ある道場へ立ち合いを申し入れたら、亀治郎さんの評判を聞いておったその道場じゃ、尋常[じんじょう]に勝負したら勝目はないというので、ま冬のことじゃったから、夜中に道場の板の間に水を撒き、カチンカチンに凍らせておいたそうじゃ。ところが、いよいよ立ち合いとなってみると、亀治郎さんは臆するどころか、凍った床の上をすべるように動き回るし、それに引きかえ、道場の門弟たちは、どれもこれもスッテンコロッで、まるで試合にも何にもならなかった。
ある日、亀治郎さんが、文武館の寄宿舎の炊事場で炊事を手伝っているところへ、あんまり人相もようない二人連れがやって来よった。普通より長い竹刀をちらつかせながら立ち合えというのじゃった。
亀治郎さんは、
「おお、よかろうよ。」
と、気軽に受けると、はま下駄をはき、その二人連れと演武場の方へ行ったのじゃった。が、じきに、一人戻ってきて、また、炊事の仕事を続けるのじゃった。
生徒たちが、不思議に思うて、
「あの連中は、どうしましたか。」
と、たずねると、
「ああ、もういいんだよ。」
と、こともなげに言うのじゃった。
亀治郎さん、いったい、この二人連れをどのようにして追っぱらったか。それを知る人はなかったと。
とにかく、この出来事は束の間のことじゃったから。
ある日、亀治郎さん、蠅[はえ]取りをして見せてくれたそうじゃ。
亀治郎さん、畳の上を這い回る蠅にねらいをつけると、サッと刀の鞘[さや]を払い、目に止まらん速さでスッと刀を走らせる。次の瞬間、刃[やいば]の切っ先きには蠅が吸い着いたようにくっついていた。畳の表には、刀の傷あとはひとつもなかったと。
亀治郎さんは、よう好んで酒を呑んだ。さもうまそうに杯をあおっている姿はよく見られたそうじゃ。
ところが、なにか気にくわんことがあると、持っていた杯(瀬戸もの)をバリバリと音を立てて噛み割ったそうじゃ。いっしょにのんでおった連中は、その様子があんまり気色悪いので、顔色変えて一人、二人とこそこそとその場を去ったと。
鹿というのは、追われると、山の上から谷川へ下りるらしい。
あるとき、亀治郎さんは、仲間たちとその鹿狩りに出かけた。
「鹿が下りるぞ、谷へ回れ。」
の合図に、丘にいた亀治郎さんは、さっと身をひるがえして谷川へと走った。ひと跳びで、四、五メートルもはねる鹿よりも、亀治郎さんの方が谷川へ下りるのがよっぽど速かったと、狩人たちがびっくりしておったと。 |
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