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今から三百年余り前のこと。五百瀬[いもせ]から六キロメートル、護摩壇山[ごまだんやま]守りの横垣という所に洞窟がある。
その洞窟のことを横垣鬼ヶ城と呼び、そこには更谷丈左衛門[さらたにじょうざえもん]という漢学者がおり、洞窟十八里(約七十二キロメートル)四方にわたって支配していたそうな。住いしていた洞窟は、断崖絶壁の中間で、彼は、免官[めんかん](官職を免ぜられた人)であったそうな。
彼は、宮祭りや木の本鬼ヶ城への行き来以外は、姿を見せなかったという。しかし、正月元旦には、門開けだといって五百瀬の更谷家へ年始に黄金を持って行き、その返しとして塩をもらって帰ったそうな。
また、丈左衛門は、本宮大社の祭典では、いつも常人[じょうじん](普通の人)として十津川の若い人といわれて御神輿[おみこし]を押したそうな。彼はこのようなとき、非常に力が強く、数十人を向うに廻して押し合いしても、相手の方が押し倒されたというすごい怪力の持主だったそうな。それで、横垣の鬼とひそかに呼ばれたものだ。
このようなことだけでなく、どこのお宮の祭でも供えてある物の中から、保存できる物を大きな荷物につくって、遠い山道をかついで帰ったそうな。宮祭で、もちひろいをしている時などは、大勢の人を押しのけて拾い、たくさん持ち帰ったそうな。村人たちは、毎年の事であるので、常に恨んでいたそうな。
あるとき、彼が那智神社のお祭に行って、いつものように、一人じめした荷物をかついで本宮まで帰って来た。ところが、待ちぶせしていた何者かが暗闇の中からいきなり飛び出して、刀を腹にさし、その場で殺したということだ。
横垣には丈左衛門のお墓もないが、洞窟は今も川向うにぽっかり暗い穴をあけている。 |
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