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むかし、むかし、幸右衛門[こううえもん]という男がいた。男は毎日、毎日、瀞八丁に来て、釣り糸を垂れておった。
春のある日のこと、その日も釣りをしていると、
「幸右衛門さま」
と、軽くやわらかに男の肩に手をかける者がいる。驚いて振り返ってみると、それはそれは美しい女が立っていた。
一人暮らしの幸右衛門は、喜んでその女を家に連れて帰り、一緒に住むようになった。女は名前もいわず、自分の身の上も話そうともしなかった。ただ男のいうとおりに「はい、はい。」といって、よく働き、仲良く暮らしておった。その内、女は身ごもり、いよいよ子供が生まれる頃になったある日、改まって、
「お願いがあります。どうか川の辺りの、誰にも知られない所に小屋をたてて下さい。そこでお産をしたいのです。赤ん坊が生まれたら必ずあなたの元に帰りますから、それまでは見にこないで下さい。」
といった。男は不思議に思いながらも女のいうようにしたのだった。
男は待った。けれどもなかなか帰ってこない。もう五日にもなる。もしかして、産後の肥立ちが悪くて、戻れないのかも知れない。そう思うと、矢も盾もたまらず、足音をしのばせて小屋の方へ行ってみた。戸の隙間からそうっと中をのぞいてみると、何と大きな蛇がとぐろをまいて、人間の赤ん坊を抱いているのだった。が、物音に気づいて頭をきっとこちらにむけると、急にもとの愛らしい女になり、赤ん坊を抱いて出てきた。
「幸右衛門さま、あれほどお約束したのに。もう、こうなってはおしまいです。ああ、幸右衛門さま、私はこの瀞のぬしだったのですが、余りにもお美しいあなたのお姿にみとれて…。どうかお許し下さい。私の代わりにこの子をお頼みします。お名残り惜しゅうございますが、さようなら…。」
ぽかんとしている男の前に、紅絹[もみ]に包んだかわいい赤ん坊をおくと、女はさっと水の中へ消えてしまった。
男が、
「待ってくれ。」
と叫んだが、女はとうとう戻ってこなかった。後悔と寂しさとやるせなさに、男は赤ん坊を抱いて泣いた。
朝日ののぼる頃、小舟に赤ん坊を乗せ、八丁の瀞をこぎめぐる幸右衛門の姿があわれで涙をさそった。
川のぬしさん 八丁の長さ
かわいいぬしさん 舟の中
という歌は、こうした伝説から作られたということである。 |
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「伝説の熊野」(昭和五年刊)から
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