十津川探検 ~十津川郷の昔話~
百夜月百夜月(音声ガイド)
   竹筒の少し南の北山川の対岸に、百夜月(三重県紀和町)というむらがある。そこに、光月山紅梅寺[こうげつさんこうばいじ]という古い寺があった。寺の庭には紅梅があり、春にはたいへん美しい花を咲かせ、よい香をあたりに漂わせていた。
 寺には、一人の美しい尼さんが住んでいた。毎日、仏の教えを広めるために行をしたり、読書するなどして静かに暮らしていた。また、寺の周りを開いて、野菜も作っていた。
 この尼さんは、近くのむらの若者たちのあこがれの的であった。しかし、真剣に仏の教えを広めたり、読書にうち込んでいる尼さんは、若者たちのことなど考えてみたこともなかった。
 さて、対岸のむらに一人の若者がいた。かれは寺の畑でたち働く尼さんの姿を見てから、心の中は尼さんのことでいっぱいになってしまった。ぜひ会って話がしたいものだと思った。そして、月のない闇夜になる日を待った。
「よし、今夜こそ川を渡り、尼さんに会って来よう。」と決心した。やがて、夜になった。川の音さえもシーンとして流れているようであった。川底をつき刺す棹[さお]の音だけが闇の中に響いた。川の中ほどまで来たときである。対岸の山から突然、大きな月がヌッと顔を出して、あたりが急に明るくなってしまった。
「これは困った。こんなに明るくなっては、誰かに見つかってしまう。人に知れたら、尼さんにたいへん悪いことをしたことになる。」
と考え直した若者は、急いで舟をひき返し、とぼとぼと家に帰った。
 次の夜も、その次の夜も、また次の夜も若者は北山川を渡ろうとした。しかし、川の中ほどまできたとき、月の光がまぶしくて、どうしても渡ることができなかった。
「今夜で何度めだろうか。」
若者は、一、二、三と指をくってみた。すると、すでに九十九日めであった。
 若者は、このことを母親に打ち明けてみた。
 母は、
「ああ、なんともったいないことを…。よりによって尼さんを好きになるとは……。あの方は、仏の教えをお守りし、広めている方だから、お前なんか、とてもとても……。そんな気持ちを持つことも恥ずかしいことだよ。」
「あのお月様は、悪いことを人間がしないように、いつも地上を照らしているのだよ。だから、お前が百夜通っても、川を渡ることは、できないのだよ。」と、諭[さと]した。
 若者は、とても悲しんだ。
「お月様もあの尼さんを、お守りしているのか。」
 それから、尼さんの住んでいるむらを百夜月と呼ぶようになった。
 ところで、尼さんは、もっと仏の教えを広めたいと考えた。
 そこで、寺に伝わる宝物を近くのむらむらへ分けて祀[まつ]ってもらうことにした。そうすれば、信仰も広まると考えてのことだった。
 まず、花びんを川下の村に分けた。むら人たちは、紅梅寺の宝物をいただいた、というわけで、お堂を建ててお祀りした。そして、このむらを花井[けい]とよぶようになった。
 川を渡ったむらには、九重[ここのえ]の重箱を分けた。このむらは、これにちなんで九重[くじゅう]という名をつけた。
 上流のむらには、美しく磨かれた竹の筒が分けられた。ここは竹筒[たけとう]とよばれるようになった。
 そのころ、都では戦が始まり、世の中が騒しくなってきた。
 そして、この熊野の地方へも、ひそかに都から逃げてくる人が多くなった。
 ある日、紅梅寺に一人の女が訪れた。気品のある顔立ちであるが、長旅で疲れ果てて、今にも倒れそうであった。
「しばらくの間、お寺にとめていただけないでしょうか。どんな仕事でもさせていただきます。」
 あわれに思った尼さんは、
「おみかけどおりの寺ですが、どうぞお泊り下さい。」
と、中へ案内した。女の人は、仕事ができるどころか、その日から、二度と起き上がることもできず、とうとう死んでしまったのである。どこのだれであるのか、またどこへ行こうとしたのか、まったく不明のままであった。
 それから、また何年かたった。
 ある日、一人の老僧が紅梅寺を訪れた。この僧は、修業のため諸国を旅している人で、たいそう偉い坊さんであったそうだ。もちろん尼さんは、そんなことを聞きもしなかったし、老僧も何も話さなかった。
 しばらく行をしているうちに、紅梅寺に仏像がないことに気がついた。
「こんな、りっぱなお寺に仏像がないとは…。」
 寺をたつとき老僧は、
「たいへんお世話になりました。この掛け軸は、私が肌身離さず持っていた、たいそう由緒のあるものです。
 このお寺には仏像がないので、この掛け軸を差し上げましょう。」
と言って、去って行ったのである。

 若く美しかった尼さんも、すっかり年をとり、やがてひっそりとなくなった。むらの人たちは、尼さんのためにお堂をたて、お祀りした。春のお彼岸には、遠くの村々からも、たくさんの人たちが集まり、そのにぎやかさは、たいしたものであったと言われる。
記録再話   和歌山県熊野川町立九重小学校

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