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奈良県の屋根とよばれる吉野の山おくに(十津川村の西南、和歌山県とのさかいに)上湯川[かみゆのかわ]という村がある。
むかし この村には、住む人もすくなく、深い山のあちらこちらに、十けんほどの家があるだけだった。
この村の庄屋に、重谷寛太夫[しげたにかんだゆう]という人がいた。もとは、京都のほうから来た、りっぱなさむらいだったそうである。心のやさしい人だったので、村人たちから、親のようにしたわれていた。
高くそびえたつ深い山々は、はてしなくつらなり、大きな古い木が、おいしげっていた。この広い山は、村山といって、村人みんなの山であった。
それで、たきぎを切るのも、家道具[やどうぐ]をつくるのも、夜のあかりにたくたいまつをとるのも、みんな、この山であった。
山あいを流れる一すじの小川の水は、きれいにすみ、青い渕には、アユのむれが、泳いでいた。
村人は夏になると、この小川に来て、アユをとったり、ウナギをとったりして、みんななかよくしあわせにくらしていた。
さて、いつのころからであろうか。この村に、渋谷与作[しぶやよさく]というどこかの浪人が住みつくようになった。
この与作は、庄屋の寛太夫のように心のやさしい人ではなかったので、村人からよろこばれてはいなかった。
ある年の秋、氏神さまのお祭りの日が近づいてきた。
お祭りには氏子たちの家で、毎年、かわりばんこにごちそうをつくって、祭りの座をつとめることになっていた。
与作は、そのころになって、ふと、そらおそろしいことを考えるようになった。
それは、このお祭りの日のお神酒[みき]に、どくを入れて、村人をみな殺しにして、あの広い村山を、ひとりじめしようというのである。
そこで、ためしに大江の岡に住んでいたひとりもののばあさんのところへ、酒とっくりをぶらさげて、なにくわぬ顔で出かけていった。
「ばあさんや、祭りももうじきじゃのう。今年はうちが当屋[とうや]じゃ、前いわいに一ぱい飲みなされ。」
と、どくのはいった酒をすすめた。
なにも知らないばあさんは、あのけちな与作がめずらしいこともあるものじゃと思いながらも、よろこんで、
「これは、かたじけのうございます。」
といって、その酒を飲みほしてしまったので、まもなくくるしみながら死んでしまった。
これを見とどけた与作は、ほくほく顔でうちへ帰った。
「しめしめ、これでよい、これでよい。なにもかもうまくいくぞ。さあ、そうなったら、今におれは、村いちばんの山持ちになるぞ。」
と、ひとりごとをいってよろこんでいた。
ところが、悪事千里を走る(わるいことはすぐ知れる)とか。ちょうどそこを通りかかったおへんろさんに、与作のひとりごとを聞かれてしまったのである。そのおへんろさんは、村人の一人に、
「村の人たち、祭りのお神酒を飲んだらあかんぞ。あの与作はだいそれたたくらみをしとるぞよ。」
と、そっとつげて、どこへともなく立ち去っていった。
その夜のうちに、このことが村じゅうに伝わった。
村人はかんかんにおこった。
「おのれ、ふらちな与作め、ただではおかぬぞ。」
「すぐに、村からたたき出せ。」
と、口ぐちに与作をののしった。
そんななかで、一人、庄屋の寛太夫だけがじっと目をとじて考えこんでいた。そして、おこりさわぐ村人に、
「みなのもの、さわぐでないぞ。はやまったことをするでないぞ。」
といって、たしなめた。
しかし、いきりたった村人は、
「いかに、庄屋どののおことばでも、こんどだけは聞くわけにはいかぬ。」
「あの与作のやつを追い出さんと、はらの虫がおさまらぬ。」
「庄屋どの、こんどだけは見のがしてくだされ。」
と、寛太夫のことばに耳をかさない。
うしろはちまきをきりりとしめて、手に手にぼうぎれを持った村人は、与作の家を取りかこみ、
「与作、出てこい、与作、出てこい。」
と、どなりながら、家の中へ小石を投げこんだ。
ふいをつかれておどろいた与作は、刀を取るひまもなく、はだしでまどから飛び出して、大江浦[おおえうら]の竹やぶの中へにげこんだ。
しかし、運わるく、竹の切りかぶで足をついて、にげることができなくなった。
ぐずぐずしているところへ追いかけてきた村人に、ぼうぎれでなぐられるやら、けられるやら、もうさんざんである。
そのうち、だれかの投げた石がみけんにあたって、与作は、
「ううん。」
と、うめいてたおれ、死んでしまった。
おどろいて、われにかえった村人の頭に、庄屋どののいわれたことばがうかんできた。
「ああ、しもうた。えらいことしてしもうた。」
「いのちまでとるつもりはなかったのに。」
しかし、今となってはあとのまつりである。
このさわぎのすきに、与作の妻のおはるは、生まれてまもない赤んぼうをふところにだいて、はだしで大井谷のおくへにげこんだ。
道がよくわからず、うろうろしているあいだに、日はとっぷりくれて、どこへも行けなくなった。
しかたなく、近くにあったウルネ(キカラスウリの根)をほった深いあなにかくれて、夜をあかした。
そして夜のあけるのを待ちかねて、牛廻峯[うしまわしみね]にはい登り、カヤ原にかくれて、カヤではきものをつくった。
おはるは、それをはいて、赤んぼうをふところに、紀州(和歌山県)の龍神村へたどりつき、小又川坂[こまたがわさか]をおりて生まれた村にかくれた。
このとき、おはるが、カヤではきものをつくったところを「はるふなやすば」と、いい伝えている。
いっぽう、寛太夫は、
「ああ、取り返しのつかぬことをしてくれたものだ。」
と、毎日考えこんでいた。
そのうちに、なにか心にきめたらしく、いつものようにおちつきはらっていた。
さて、いく日かたって、このさわぎが五条の代官に聞こえてしまった。
まもなく、代官所から、取り調べの役人がやってきた。
よび出された村人は、まっさおになってふるえているばかりである。
「そのほうども、渋谷与作なるものを、石こづめにして、殺したと聞きおよぶが、しかと、さようか。」
だれ一人、頭をあげるものはいない。
「ことのしさいはともかく、人をあやめるとはふとどきせんばんなり。かくごいたせ。」
と、役人のきびしい声がとんだ。
そのときである。
庄屋の重谷寛太夫が、つかつかと役人の前に進み出て、りんとした声で、
「申しあげます。渋谷与作を殺したるは、この寛太夫めでござりまする。村人どものいたしたことではござりませぬ。」
と、きっぱりいった。
「寛太夫をひきたてい。」
村人は、あっと息をのんだ。
なわをうたれ、ひきたてられた寛太夫は、村人にいつもとかわらぬやさしいまなざしをむけていた。
やがて、寛太夫は大井谷上の天井平の近くの峠で、いさぎよく首をはねられた。
「寛太夫どの。」
「寛太夫どの。」
と、あとを追う村人は、声をあげてなきさけんだ。
うちとられた寛太夫の首は、峠にさらされた。
村人は、代官にねがい出て、寛太夫の首をもらいうけ、ていねいにこの峠にほうむった。
そのときから、この峠を「仏峠」とよぶようになった。
寛太夫の首をはねた血刀をあらった谷の水は「飲まずの水」といって、だれも飲まない。
これいらい、この寛太夫をほうむったところは「花折塚[はなおりづか]」とよばれ、村人がたむけるサカキや花が、今もたえないのである。
月日は流れて二十年。
秋祭りの当日のことである。
成人した与作のむすこが、
「きょうこそ、うらみかさなる父のかたきをとりにまいった。」
と、刀をきらめかせて、庄屋の家にのりこんできた。おはるがふところにだいてにげた、あの子である。
庄屋は、
「まあ、気をしずめて聞いてくだされ。」
と、わかものをおしなだめて、これまでのいきさつをのこらず話して聞かせた。
しまいに、寛太夫がいのちをすてて、村人を助けた話を聞いているうちに、血気にはやるわかものの心もしだいにやわらいできた。
「いかがでござろう。おまえさんが父上をしとうて、うらみに思う心はよくわかる。しかし、今さら、血で血をあらうようなことは、もうやめようではござらぬか。このさい、おわびのしるしに、父上がのぞんでおられた山をさしあげましょう。」
村役たちに相談して、北又おくの山を一か所わたした。
わかものもなっとくして、祭りの酒をくみかわして帰ったということである。
それいらい、この山のことを「首銭山[くびせんやま]」とよぶようになった。
今では、花折塚は、寺垣内[てらがいと]の氏神さまの境内にうつされて、だいじにまつられている。 |
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(日本標準社刊「奈良の伝説」から) |
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