十津川探検 ~十津川郷の昔話~
釜中の七人塚釜中の七人塚(音声ガイド)
   今西の在所から、約一里ばかり行った所に、釜中という小字がある。今では、もう大きな杉木立の中に屋敷跡や朽ちかけた空き家が見られるだけの所となっている。
 さて、この釜中を開いたのは、奥州から来た落人[おちゅうど]釜中将監[かまなかしょうげん]だという。将監が奥州で住んでいた所が釜中だったので、今西に住み着いた所にも釜中という地名を付けたそうだ。
 将監は、釜中で暮らしている間に、土地を次々に拓[ひら]いていき、大屋、下根[しもね]、今中、吉本、左垣内[ひだりかいと]、古矢倉[ふるやぐら]、馬場平[ばばんだいら]の七戸を築いたという。
 将監が釜中へ来た時の事情を書いた、五尺余りの巻き物は、現在もあって、新宮のある人が持っているという。
 ところで、戸数はふえていったが、各戸とも、当時の生活は相当きびしいものであった。田畑で作る作物だけでは足りず、椎の実を拾っては炒って食べ、草や木の芽を摘んではおかずとし、よもぎの葉を茶の代わりにして飲んだという。
 大屋の主人は猟師で、山ではいのししやきじを捕り、川ではうなぎやあめのうおを釣って食膳をにぎわせていたそうだ。
 家が川の近くにある大屋の主人は、「この細々とした暮らしを何とかせにゃならん。ようし、川向こうの馬場平の下の柿の木佐古を開墾しよう。」と思い立った。家族みんなでカを合わせて働いたので、やがて、三畝(三アール)あまりの畑を拓くことができた。
 ある日、主人は畑に肥[こやし]をやるため家から馬の糞を運んでいた。何度か運んでいる途中、谷のそばで一休みした。そして、これからの生活のことを、いろいろ考えめぐらしていた。
 主人の足元から四、五十メートルの下には、高さ十メートルばかりの不動滝(不老滝ともいう)があった。じっとその滝を見つめていた主人は、何を思ったのか、馬の糞を背負ったまま、谷へ下りて行き、不動滝の上に出た。
 昔から、不動滝には主[ぬし]が住んでいる、といわれていた。主人もそのことは知っていた。
 だが、この日の主人の様子は普段と少し変わっていた。「不動滝に主がいるという昔話なんか信用できない。もし、本当にいるというのなら、一つ試してやろうじゃないか。」と、背に負っていた馬の糞を下ろし、「もし、不動滝に、主がおるんなら、姿を見せてみい。」
いうが早いか、滝めがけて投げこんだのじゃと。
 すると、これまで静かだった清流は、みるみる茶色に変わり、滝の下[しも]の青々としていた流れもにごってしまった。そのときである。渕のあたりから、突然、金色の美しい鳥が、空高く舞い上がった。そのとたん、主人の目はくらみ、異様な恐ろしさに、胸もしめつけられるようだったという。しばらくして、我に返り、恐ろしさにふるえながら家に帰った主人は、大いにおどろいた。さっきまでの和やかな雰囲気からは、想像もできない光景であった。家族はみんな、何かに押えつけられたような状態で、身体はしびれ、身動きさえできないありさまになっていた。やがて、家族は、もだえながら次々に息を引きとっていった。主人も、次第に体の苦しさを覚え、まもなくこの世を去った。また、家で飼っていた馬や猫、犬からにわとりまで全部死んでしまったということである。
 近所の人はもちろん、今西全体の人たちも、「これは、偶然ではない、きっと神のたたりであろう、心すべきことだ。」と話し合い、亡骸[なきがら]を大屋の下に葬った。これが釜中大屋の「七人塚」と言い伝えられているものである。今では、わずかに墓石に月峯相信士と桂月秋雲信女の二人の名がみられるのみである。
(注、この話をまとめるにあたって鎌塚良彦氏より聞いたことも一部入れた。再話者)
話者   永井   羽根 秀壮
再話   後木 隼一

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