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たしか、大正三年のこと、わしが数えの五つのときじゃった。
神納川[かんのがわ]にいる叔母は、子なしでさびしいから、連れがほしいというので、わしは、それから三年もの間、この叔母の家で暮らすことになったのじゃった。
叔母は中西ミワといって、その頃、村議会議員じゃった中西文太郎の後妻で、上西という旅籠の女将[おかみ]さんじゃった。この上西は、その昔、高野街道(高野山-野迫川-十津川-熊野)の難所、伯母子峠[おばことうげ]から五百瀬[いもせ]に通ずる街道の中途にあったのじゃ。
今から七〇年ほど前は、高野からこの伯母子峠を越えて馬が米・さかなをこの十津川へ運んだわけだ。
上西は山の上じゃったで、日の出は格別きれいじゃったし、晴れた日の見晴らしは、山々が雲の上に青く連らなって、ちょうど天の国にいるみたいじゃった。
早い朝が明けると、伯母子の方から、チリンチリンと鈴の音が響いて、二頭も三頭もの馬が、背中にいっぱい荷を積んで下ってきたものじゃった。馬子[まご]たちは、上西で一服すると、下の五百瀬へと下りていくのじゃった。そして、その帰りも馬子たちはお茶を飲んで行ったものじゃった。
この上西のあるあたりは、新宮の門新[かどしん]の持ち山で、いつも人夫たちが泊っていたようじゃった。
また、上西では、牛を二頭も飼っていたし、家の周りは広い畑で、野菜もいかいこと(たくさん)とっていた。上西のナンキンとジャガイモは北海道にも負けんぐらいうまいと、客の評判じゃった。田んぼは山を下ったところに少々あったようじゃ。
高野詣[こうやもうで]の人たちが行き来していたが、毎年、春から夏にかけては、巡礼さんがおおぜい泊り、夜の更けるまで御詠歌[ごえいか]が止まず、それはにぎやかじゃった。
上西から五百瀬へ下る途中に、たしか大師堂があったようじゃ。昔、大師様が持っていた杖を投げると地面に突きささって、その杖から芽が出て大木になったというのじゃ。ところが、その木から出る枝は、みんな逆さについたということじゃ。わしもその木を見たものじゃった。
冬の大雪で伯母子越えをしようとした旅人が、死人のようになって連れてこられたこともあったな。雪のときでも、山登りをする若い男たちが、組を組んで伯母子の難所に挑んだようじゃった。
今は、この高野街道を通る旅人はおらず、この上西という旅籠は跡形もなく、深い山の中に消え失せてしもうた。
叔父、文太郎は、先妻との間に二人の男の子をもうけたのじゃが、弟の方は若死にしたし、兄の方は、早くから家を出て帰らず、風の便りでは、勝浦方面で魚を商い、一家を成しているという。
高野街道の移り変わりとともに滅んでいった旅籠「上西」の話じゃ。
上西は、杉清[すぎせ]より五〇町も登った山の中の一軒屋じゃった。 |
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