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あの大水害が起こったとき、徳松[とくまつ](わしらの父)は十八才じゃったらしい。
明治二十二年八月十九日、やっと夜が明けてみると、たいへんなことになっていた。谷瀬[たにせ]の在所にある四つの谷は、どれもこれも目もくらむような大水で、大地がただゴウゴウと鳴るばかりじゃった。
親戚の沼部権八郎[ぬまべごんぱちろう]とこの土蔵がミシリ、ミシリと無気味な音をたてて傾きだした。「これは、あぶない。」と、権八郎夫婦が外へ飛び出したのと、上の山から鉄砲水が落ちてくるのと同時じゃった。二人はギャアと、一声残したまんま逆巻く泥水の中に巻きこまれていった。それは、まったくあっという間のことじゃった。
やがて、これを聞いた徳松は沼部宅へ駆けつけようとしたが、いつものから谷(水のない谷)も、きょうはまったく通れない。思案あまって、氏神さんののぼり竿を向こう岸に倒し、それにつかまってやっとで渡り、沼部へ来てみれば、土蔵は倒れ、その上を滝のように土水が落ちていくばかりじゃった。
その日から幾月か経ったある日、ガアガアと烏があんまりさわぐので、二、三人の男衆が近づいてみると、えぐり取られた谷底の埋もれた木の株に、白骨になった死体がかかっていた。おそるおそる近寄ってみれば、着ていたてしま(雨具)の焼印から権八郎の嫁と判った。けれど、権八郎の遺体はその後も、とうとうあがることはなかった。
この大水害で、谷瀬の田や畑はほとんど流され、家も埋もれたり倒れたりして、在所は全滅したみたいじゃった。
今日のように作り戻し、建て直すのには、何十年もの歳月がかかったということじゃ。 |
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