十津川探検 ~十津川郷の昔話~
笠捨山の化け物笠捨山の化け物(音声ガイド)
   明治の初めごろの話である。そのころ、郵便物を運ぶ人のことを逓送入[ていそうにん]とよんでいた。逓送人は、郵便物を風屋、折立、そして玉置山を越えて夜中の一、二時ごろ笠捨山を通って下北山村の浦向[うらむかい]まで運んだのである。
 笠捨山は、「千年斧入らず」と言われるほどの原始林で西行法師があまりの寂しさに笠を捨てて逃げたことからこの山の名前がついたといわれる。それほどに寂しい所であるから逓送人となる人は、よほどの豪[ごう]の者だったわけである。
 ある晩の事、茶器某[ちゃきなにがし]という逓送人は、いつものように笠捨山にさしかかった。ところが、いつも通っている道であるのに、なんとなく普段と感じが違うのである。
「ウーン、おかしいぞ。生あたたかい風だ。」
立ち止まって思案していると時化「しけ」ランプの灯が、またたいて消えてしまった。
「灯が消えてしまったぞ。さて、どうしたものか……。」
あたりは、鼻をつままれてもわからない真の闇である。
「そうだ火縄だ。火縄に火をつけよう。」茶器は火縄に火をつけ、薄い光の中であたりをうかがった。前方に、茶色い妙なけだものが、前足をたててすわっているのが見えた。
「何だ、あいつは。なんとも奇妙なけだものだ。今まで見たこともないぞ。……なあに、負けてたまるものか。」
と、度胸をきめて、しばらくの間、けだものとにらみあった。そのけだものは、これはてごわい相手だ、と思ったのか、スッと姿を消してしまった。
「やれやれ、おかしなこともあるもんだ。」胸をなでおろして、山を越すことができたのである。
 それから二週間、何事も起こらなかった。三週目の夜のこと、笠捨山にさしかかった茶器は、また、あの生あたたかい風を感じた。時化ランプの灯も消えてしまった。
「こりゃあ、かなわんなあ。」
急いで時化ランプの灯をつけようとしたが、一向に灯がつかない。
「おかしいなあ。」と思いつつ、ふっと物のけはいを感じて正面を見た茶器はびっくりした。まっくら闇の中に髪ふり乱した女が一人立っているのである。顔はすきとおるように白い。しかし、目はつり上がり、口は真っ赤に耳まで裂け、とがった白い歯をむいて、こっちをにらみつけている。女の着物の縞模様まで、はっきりと見えた。すそが、かすかに夜風に揺れている。
 茶器は、どうしたものか思案したが、「そうだ、火縄に火を点けて投げつけてやろう。」と思いつき急いで火をつけ、それを女めがけて投げつけた。
「ギャー。」女は、妙な悲鳴をあげて消えてしまった。すぐ時化ランプに火をつけて、急いで山を越えた。
 二度も化け物に出会った茶器は、笠捨て越えが、いやでいやでたまらなくなった。それで、しばらく仕事を休んでいたが、彼の代わりをする人もおらず、郵便物はたまる一方であった。元々責任感のある男であったので、天秤棒で郵便物をかついで玉置山から上葛川・笠捨山へと歩いた。こうしてしばらくは、何事も起こらなかった。
 化け物のことなど忘れたころ、茶器は郵便物をかついで、時化ランプの明かりを頼りに笠捨山を登っていた。すると、生あたたかい風がほほをなで始めた。
「さては、また化け物だな。」と感づいたとたん、ランプの灯はフッと消された。
「よし、今度も火縄を投げつけてやろう。」火縄に火をつけようとしたとき、ゴウゴウと山鳴りがし始めた。そして、ドサーッ、バサーッという音もし始めた。何物かが、恐ろしい音をたてて山を下りて来るのだ。風まで恐ろしげに吹き始めた。
「おお、大入道だあ。」大入道が出たのである。高さは一丈余り、(約三メートル)山道をひょいとひとまたぎすると、ずんずん下へ下へとおりていった。大入道が山を下りていってしまうと、山鳴りも地響[じひびき]も風も、うそのようになくなった。こそっと、音をたてるものもないほど、山は静けさにもどった。茶器は、壷の底にいるように感じた。耳が痛くなるような静けさである。耳の底が、シーンと鳴っている。
 突然、茶器は、気が狂ったように山道を駆けのぼって行った。この静けさが、また別の恐怖となって、彼をいたたまれなくしたのである。
 翌日、浦向の郵便局では、いくら待っても逓送人の茶器が来ないので大騒ぎとなった。そして、かれが下りて来る道をたどっていくと、一軒の山小屋があった。もしや、と思って戸を開けると、柱にしっかりしがみついて、ブルブル震えている茶器を見つけたのである。よほど恐ろしいことがあったのか、全く口を開こうとはしなかった。気が落ち着いてから、化け物に出会ったことを、彼の口から、ぽつりぽつりと聞くことができた。
 そこで、浦向の人たちは、山伏にお祓[はら]いをしてもらうことになった。お祓いをすませた山伏は、「丑三つ時は、山の主たちの時間なので、人間が入ってくるのをいやがるのだ。」と話してくれた。そこで、郵便局から東京の逓信省(今の郵政省)へ、郵便物運送の時間を変更してくれるように申し込んだ。返事が来るまで日数がかかるので、その間は、鉄砲や刀をもった人たちが、逓送人を守って笠捨山を越えたのであった。
 東京からは何の返事もなかったが、そのうちに郵便物は新宮へ運送されるようになり、笠捨山を越えることは、廃止となったのである。
話者   上野地   大島 潔
記録   上野地小学校
再話   松実 豊繁

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