十津川探検 ~瀞洞夜話~
私のこと
   私の経験を述べると、中学4年で退学し、進学の資格なく、而し私としては医学の道をたとへ植民地にても達成すべく信念に燃えてゐたのである。他の学問と違って、どうしても患者が要であり、之には無免許と云ふハンデキャップがあり、愛してくれる医師、愛してくれない医師、衆人も同様であり、すべて利用されるうちに学んだものであった。この三大字のうちで下葛川の東慶二郎大先輩(済生学舎出身)は資格としても資金の面でも、その環境よろしく私は到底及ばない。朝鮮半島へ渡ってからの荊の受験の明け暮れ、そも何年ぞ。戦争はこの中で發生して、これが長年のブランクとなり、更に病は酷い打撃を私に与へたのである。今に思へば殘念な悔しい目に医師や警察、人を侮る下司の者に幾度あったことか。〔後年、縣庁に至り医師免許状を受けた際、微笑した係官は私について記録した一冊の綴じた書を見せてくれた。思ふ。若し、私がモグリの医師であったら許可されなかったであらう。〕
 私が二十歳の頃、父も伯父も私の前途を憂へ、体を休めて何か商売をせよと云った。然し私は肯じなかった。田辺に住む世界的な学者南方熊楠先生からも「來い。」と云ってきた。然し、宿命の長男には許されなかった。
 微力とは云へ清潔な心で患者のために尽くしたと思ってゐる。第一に金銭上のことに社会的に疎い私である。悪党でなかったと今でも思ってゐる。慾や酔狂で50歳近くで國家試験に明け暮れする馬鹿はないのである。人30人の寿命を20年延長し得たとする私は、之で600年の寿を得たと思ってゐる。
 私の生活は極めて地味で、私自身は何の取り柄もないことを断言しておく。鳶一本の労務者にも劣ると思ふ。医学以外に私は、周辺の様々な動植物の習性、謎の動物、風俗や習慣、古事、祭祀などについて南方先生、秩父宮顧問平松氏から依頼されて採取したものである。これらについては大正末期から昭和15年頃まで心掛け、京都、東京等の雑誌に郷土紹介の形で発表した。その他に医学上の受賞(昭和18年技術院より受賞、奈良縣では私一人)もあった。48歳で医師國家試験受験と云ふことは馬鹿らしい荊の道であるが、慾や酔狂で出來るものではない。やはり馬鹿に見える。私でない限りはと思ふ。軈て自然の中へ周りの人より早く逝く私である。全てのものはどうなるかは私なりに考へてゐるし、人に押しつける鼻もちならぬ我流の慢を云ふべきはずもない。私は月並みの学徒で確か馬鹿だったと思ふ。
注- (279)話と(280)話は『瀞洞夜話』では一つにまとめられて記述されているのであるが、内容がかなり入り組んでいるため宇城氏のこと及びご本人のことの二つに分けて転載した。

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