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この人の身上をこの『瀞洞夜話』に加へ記すのは異端らしく何の関わりもないことのやうにみえ、又趣旨の上からも変に思はれるかもしれない。然し、私が取り上げたのは、40年前の昔、氏が筏乗り人夫として、常にこの川に働いてをられ、普段横目で田戸を睨んで退屈な瀞を流してゐる内に、人の性を悟り、目前の利に堕してしまはず、環境のあらゆる苦に超然として發奮の志を立てて、赤手空拳、大なる自力を、その強健なる体躯を信頼して運命開振に勇躍して進まれ、遂に目的を完遂されたと云ふ稀なる人であり、衆に範とする人であり、現在の脛齧り族の比でなく、社会的にも優れた人であるから、私としても氏には劣るとも同じ系類の先輩と思ひ述べとどむる訳である。そして、田戸初めての医師法に依る医師と云ふ私、國家試験のたびに一喜一憂を何度も繰り返した私、而も病の私を励ましてくれた人であるからである。老境の我を鞭打ってくれたのは先生であり、共感する大先輩である。凡てにおいて優れた人である。筏夫と云ふ労働者から身を起こし、樺太、北海道、湯の口と医師として立派に人間街道を大手をふって通った、私としては羨ましい大先輩をそのままに埋もれさせたくないのである。もとより学問も技術も現今の医師と比較すれば雲泥の差があることは承知してゐる。然し、その資格取得をみると私より宇城先生の方がずっとドラマチックであり、さまざまの難を一人乗り越え、ともかくも開業してをられるのである。学術よりも、その精神面、実行面を我々は考へて心の糧にすべしである。
私を、田戸の産の私を鞭打ってくれたこの八十近い老医のことを、ここに記すのは、先生の難事を一枚の紙にまとめておけば、閻魔様の庁を通るとき職業のあいまひを咎めらるることがあっても之を示せば堂々と通れると思ってゐる。先生は、粒々辛苦の上、その努力が報はれ、敗戦の時にはソ連の暴手より敢然と老躯を危険に挺して脱出、故山の湯の口に開業されたと云ふことは、實社会の活動力と成育せる自己力は自分とは雲泥の差あり。羨ましくさへある。そして毎年村人を連れて瀞を訪れてくれた。懐かしいのであらう。あの頑健な体躯を見ると私としては、万感交々の感に至る。先生の履歴を記すと下記の通りである。
-宇城文六氏-
明治16年8月10目、父由藏六男に生まる。幼にして母を失ひ、小学校卒業後17歳のとき大阪に出て、西長堀宇和島橋活版印刷業、沖野三郎氏方に小僧として奉公、大阪在住三カ年にして一旦帰省、農業手傳ひ、山林労務に從事することとなる。
この後、上北山村河合にて筏夫の仕事に從事す。この時、明治38年なり。大正6年、夏目兼太郎校長二女岩子と結婚、一児をあげしも、大正2年8月妻子と死別す。心機一轉、東京に出で苦学、身を立てんと大正3年4月上京す。下谷區医学士(今の博士以上の価値)中村謹吾氏に師事して医学を学び、毎日午後上野図書館に通ひつつ勉強する。
昭和3年まで15年間東京市内20数カ所の大小病院に医局助手として勤務し、医学及び技術を修得す。昭和3年父歿す。昭和4年4月、時の法制局長官樋貝詮三氏の紹介により樺太真岡支庁長堀安二郎氏、及び豊原市庁長河合智茂氏を頼りて渡島、真岡岩崎病院岩崎源吉氏方に奉職し、樺太庁令医師試験合格。昭和5年にて樺太開業、昭和20年大東亜戦争終戦を迎ふ。11月25日まで医業を続け、主としてソ連軍人の治療に當りたるも、感ずる處あり、脱出を決意す。一旦西海岸に脱出。12月28日、漁船に便乗し脱出成功。九死に一生を得て、翌31日北海道稚内港に上陸、故國の土を踏む。途中見知らぬ人々の心温まる好意に感謝しつつ郷里湯の口に引き揚ぐ。
昭和23年11月海外引き揚げ医師國家試験に合格。昭和24年6月、北海道岩内郡小沢村々医として小沢診療所を開設、昭和34年老齢と病弱のため小沢診療所を閉鎖し、余生を郷里で送りつつ療養生活を送る予定のところ、医療に恵まれぬ僻地の住民のため犠牲の出費も顧みず投資、診療所を作り命の続く限り使命を捧げんと決意實行中なり。以上。
宇城先生の生涯を見ると幾つかの我々が学ぶべき点がある。人として一つ一つの現状や依頼にとらはるることなく、自立的に創意して國造りの大望を持って前進すべきである。先生の生き方に負けない努力を我々はせねばならない。
人の前途はすべて辛労である。享楽と云ふのも、よく考へると苦の始まりで、享楽は次に扣へてゐるほんの少時と佐藤春夫も云ってゐる。信鸞は猶如火宅と人の一生を云ひ、釈迦は生も苦界と云ってゐるほどである。 |
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