十津川探検 ~瀞洞夜話~
赤木城悲史
   さて、淺野右近太夫は、津久の一味や徒党となった者どもを部下などが捕まへてきて赤木城を中心にして処刑した。厳重な取り調べの上、田平子で磔としたのである。
 田平子は現在の入鹿に向かふ途中に在り、我が見た時は、村は杉林となってゐた。田平子は、里の少し上方にあり、低い小山の中腹と云ふべく、登りつめるは直ちに入鹿村に入る。古文書によるとかう記されてゐる。右近太夫の命として下記のとおりである。
 「尤も、一揆に加担いたし候者は、耳を削ぎ、眼の球を抉り、磔となし、首は塩漬けとし新宮淺野右近太夫表にさし送るべきものなり。」とあるのを見ても如何にその刑が残虐であったかが分かる。冬の陣後の処刑も主としてこの處で行はれた。
 この処刑の計略は、一年前の台風によって城が破損したので大修理を行ひ、この工事の終了を利用したのであって、白く仕上がった城へ村人は鉦をつきながら祝儀言上に出掛けたのである。一揆からかなりの日時も経ち、處刑もこのところなく、人々は安心してゐた。然るに城中では、かねてより一揆一味の氏名を調べあげてをり、嶮しい山奥に炭焼きとなってゐるものも、この祝日には必ず出て來るものと期して待ってゐたのである。何心なく祝儀言上の者が玄関に訪れると、巧みに使者の間へ案内し、忽ち引括って捕らへ、唄に殘る命の捨場田平子へ永劫に連れ去った。唄には、一人の若い大工が愛人の女に櫛を贈り、逃れ得ない運命と観念して逝ったと云ふことが歌ひこまれてゐると云ふ。そして一片の哀歌のやうに殘り傳へられたと聞いた。
 前記のやうに妻子が身代わりとなり、或ひは一族40人も殺された如きは、天誅組の乱より桁違ひの人が殺されたことは間違ひないのである。今はハイヤー、トラックが走り、テレビあり、人の風貌も家のたたずまひも、山も川も田畑も変はり、昔の歌もなく、吹く風も歌声も月の光もすっかり変はってしまったが、かつて大量の血が流されてゐたのである。

瀞洞夜話へ