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昭和18年、戦争もいよいよ急迫、人も兵器も物資も欠乏し、見すぼらしいいじけた様なこの地方にも、60年ぶりの大地震が新宮市を中心として發生した。南部紀伊半島は大小この厄にかかる。思い出すたびにゾッとする。あの鳴動音と振れ方、家の揺れ、道・宅地の破損、家の損害等自然の力は如何なる時も人力を絶する。文明を謳歌する東京都に今一度大正12年の関東大震災の如きが起こったら如何だらう。官庁街、鉄道、水道、通信、電氣、道路、住宅等あらゆる一切の東京の客観的財物、そして組織も幾十万の人命も須臾にして滅ぼされしまう。(関東大震災のときは、)一種の蜚語による動乱(朝鮮人)、無力と化した警察、殘酷なる賊徒と化する日本人、瞬時のうちに暗愚の町、愁怨の町に変はってしまった。地震は全く予測すべからずの人生の大地獄と云ふべきだ。その時は紀南にさして被害なし。少し震へたのみであった。但し、第一波と第二の間、5分くらいか。
我中学の1年の頃か、田辺の湊通りの下宿にて、折節午の食事のため学校より帰り、之を済ませて友と2~3人窓に出て町通る人を陽を受けてのんびり見下ろしてゐ、明日の試験のことを話しているとき、(正午12時に至らぬ前であったが)俄に激しくはないが家がゆっくりの周期でぐったりぐったりと大きく揺れた。第二波はそれほどでなく小さく短期間。第一波のユラユラは時間的にも永い様に思った。
大したことはないと思ひ、授業終わり宿に帰ると号外の鈴の音。ニュースの掲示で初めて全滅的な関東大震災のことを知った。その明日は戒厳令發動のことも知り、一同驚き、講堂に会し物理の先生より(地震についての)話を聞いたものであった。地震に脅へてゐる先生も生徒も3日目のこと(漢文の授業のときであった)、俄にパリパリと小さい地震があった。その瞬間の騒ぎで、氣がつくと生徒は廊下より庭の仕切りの上に馬乗りになってゐ、先生も廊下に飛び出してゐた。出口にあった我の級長席こそいい面の皮であって、突きまくられ、インクもひっくり返され白服はインクだらけだったことを覚えてゐる。後、復興節と云ふ歌流行、「ノンキダネー、ノンキダネー」とやってゐた。
後年、橋のことにて浦地君に誘はれ、我夫婦も共に上京した節、(東京は)復興してゐた。否、急造の町の感あったものである。それは、世界二大地震國の一つの証であった。
余談は置き、當地方の大地震のことを述べると下記の如きものである。
昭和18年12月、晴れた日であった。我と父と二人のみ家に在った。家の向かふに當時ゐたのが、いま新宮へ越した森一雄夫婦と娘達であった。長女の娘かづ子は我家の新屋敷と称するところに一段高く蔵屋敷と云ふところにあり。倉庫も在り。記念物になる如き檜の大板、柱、□、ワイヤーなど一杯入れてあり、それでもまだ余地を殘してゐた。そのかづ子、我家の張り板を借り、糊張りをしてゐた。午前のこととて之(かづ子)を呼んで森の妻午食せんものとしたらしい。我の方は父と食事を済まし、父は新聞を、我は店の間に出て腰掛けて何か書いてゐた。人通りもなく、森一家の聲のみ聞こへてゐたのであった。
突如として地震は怒り振るった。甚だ急激に強く揺れて経験の外にあったので驚いた。氣味悪いギシギシゴトゴトの音とその震動、而も揺れ方は完全に人を心身呪縛してしまふ。(我考へると逃げ出す足もままならぬこと、地球の自轉にこの運動が干渉されし為なり)時計も止まった。家は揺れて、ユラユラ往復運動してゐる。山の鳴動音も聞いたが心地良いものではない。岩石の轉落して淵に飛び込む水の音、そして岩石の土塵浮き上がり、忽ち濁る淵の水、鳥も飛ばず鳴かず、犬猫も何か不安らしく神妙にしてゐる。
茲においてこの小さな社会は確實に攪乱されて常軌を失ってしまった。我は庭に飛び出す。但し、裸足のまま。森方より森の妻・娘と出でくる。我家の倉庫のあたりを見ると、波の如く石垣は震へ、岩も少々、家も大分地鳴りして揺れてゐる。途端に我倉庫屋敷の上方の返り石垣、膨らんだと見るや山もろとも忽然と崩壊し來たり。忽ちの間に倉庫も屋敷も森の娘(かづ子)の板も布もアッと云ふ間に埋没してしまった。後から後から岩が崩れ落ちる。 如何にも永いやうだが少しの時間の描写である。石垣崩るるを目撃した森の妻は、ワッと泣いて我の左の手にぶら下がり、右の手に娘がぶら下がって驚きの泣き聲をあげてゐた。我は落ち着いてる訳ではないが、このワッと泣かれて初めて自制心が起こった。森の妻は娘が危機、それこそ帰り着いたとたんのことで、まさに危機一髪の処で助かったこと、危なかりしことなど様々の心であっただらう。瀞ホテルや中瀬古も向井へ避難した。
その後見ると、地震の震動脈はこの辺りより次第に上行して、杉岡、クラブ(集会所)、東、そして上田に至ったらしい。最も杉原より斜めに東一郎の辺りへ集中したらしく、上田の隣の中井、浦地も大したことないらしい。但し、石垣又は山石の轉落を恐るるもの、大したこともなかった。我家と瀞ホテルの間の小石の石垣も案に相違して、また義明の宅地に大なる亀裂ありしと云ふも、あの小さな石の石垣はよくぞ崩れざると思ふ。
上に登ると、先づ我の屋敷の駐在所上の三角形の辺り、少々亀裂あり。道の崩れたるところ、肘の谷と杉岡の下に少々亀裂あり。次にクラブに行くと庭に大きな亀裂あり。杉岡の家も少々動いてゐるし、クラブの上の岡より見ると,上田のか東のか分からぬが、石垣石がいくつも畑へ飛び出してゐた。上田へ行ってみると東との間の石垣(ツイヂ)7分まで崩れあり。上田の門前より一面石垣も何もメチャメチャになってゐ、家も狂い、驚いたことには障子の紙もことごとく破れてゐた。その他、上にかけて石垣の崩れ、屋敷の半崩などがあった。そこで考へる。石垣とくにツイヂと云ふものや石垣では角の部分は如何に大石を使ってあっても弱いもので、それは新宮城跡の石垣でも水野侯の代々の巨大な墓碑の転倒でも分かった。
次に堅固と云ふものは、ほとんどは概念的であってコンクリートを使っての建築も地震に絶対安全とはよほどの考へを要するもので、絶対と云ふのは津波の來ぬ、山崩れの心配のない土地にコンクリートの塊の如き家を造るより外なしと思ふ。普通の木造や何か、却って地震の周期に逆らひ、余計破壊されるらしい。このことは新宮の寺で分かった。ユラユラしても地震の周期に合ひ、タイミングよく動ひてゐる方がよい場合が多い。勿論、これも程度問題である。一瞬の間に大被害を与へる自然なれば、注意すべきである。東京都を主とし立ち並ぶ耐震耐火のビル、夢のロマンスカー、オートメの大工場はよいが、自然の怒りに会へばひとたまりもない。所詮人間であるから、火事と云ふ二次的の大害の王者のことも戒心すべきである。
その頃、新宮では、妻ら奈良地方木材社に勤務してゐたらしく、この時この建物崩れ、一人の男落ちるレンガ瓦で脊髄断切で死んだそうだ。アスファルトの道路、波の如し。丁字屋潰れ、客2~3人圧死あり。倉庫など倒壊も多く、倉庫へ物を出しに戻って死んだ者、宿の潰れしものなど大騒ぎ。戦争中とは云へ、母と二人、弟は中学1年、全く疲れ果てて苦しんだと云ふことである。家は殆どひっくりかへりかけ、納屋は潰れ、階段は落ち、その跡の取り片付け、家の修理に、食料難の時とて全く困ったらしい。
新宮は第二の余震の時は、地震よりも切目屋の出火による大火事の痛手の方が遥かに酷く、新宮人を苦渋のどん底に陥らしめたのであった。第二の余震の時は、妻の母は大したこともなくて良かったと云ったらしいが、何ぞ知らん、新宮市を殆ど焼き尽くす大火となった。火は変にウロウロと廻り焼いたものである。
當地(田戸)では地震は恐ろしかったが、庭へ人が集まる程度で大したこともなく、山口の畑の崩壊、我家の倉庫屋敷の上方の再度の崩壊、中正明の前庭の崩壊くらいであったが、通信は途絶し、新宮あたりの被害の状況を知る由もなく不安であった。十津川入りする人をとらへ、尋ねるに妻の生家辺りは出火の何時間後焼けたりと云ふ人あり。心配したものだ。
我、見舞いを兼ねて下新して驚いたものであった。以前の記憶にある新宮市はまるで姿なく一面の黒き焼野ガ原、大橋のところを成川より見ると、見渡す限り黒々とした哀れな原となってゐた。うずたかい缶詰の焼けた、瓶類の溶けた跡、又早川医院の大きな建物も、そして永い関係のあった三つ葉藥局も全て一切全て影を消してゐた。氣の早い者は焼け跡の整理、川原へ焼け瓦など壊れたもの一切を車で運んで捨てた。川原には、そんな物が山となってゐたし、仮小屋として戸板テント、タンスその他家財もろともの俄バラックや小屋ができてゐた。妻の一家は、城山に近い公會堂の瓦小屋を仮に住まいとしてゐた。兄も嫁も手傳ひの縁者もすべて異常の風体、異常の態度で元の生活を取り返すべく懸命であった。市内の人々も同様であった。
歌吉伯父は大寺に避難してゐた。妻の中兄は住む家を焼かれて妻の家に。まるで新宮は戦争の様であった。城山の石垣に登り見下ろすと新宮は惨憺ものであった。寺の類は築地、石垣と広い庭又は山を背にしており焼けたものなど我は見なかった。以前の地震のときは全龍寺(新宮十郎の發生地)その他頑丈な建物は却って大狂ひを木組に生じ、専門の修理屋がワイヤー、ジャッキなど利用してゐたのを覚えてゐる。
窮乏でなく時代が落ち着いてゐ、道徳もあったなら、たった一軒を火元とする火事、消防署と協力して、たとへ水道は不十分でも防火帯を作るなどして消火することができたと思ふ。人と云ふものは、かかるときに團体の精神、高き道義がわかるが、然しかうなると殘念ながら新宮では、よし一部に心ある人ありとするも、自制を失ひ瞬時には完全に野獣となる。火事の如きことにも心に関心をもたず、人間らしい計企もなさず、ただ自己の利、而も原始的を望み、労力も我に降りかからない火事などには之を捨てて為さず。話を聞くと、火事場泥棒横行、居酒屋など手傳ひに多く來たりて之を為さず、酒を酌み飲みしたる者多いと云ふ。
自轉事、トランク、梱包物、手輕の財物などうっかりするとすぐ盗まれてしまったと云ふ。他所より入り込み狙ふ者も多かったらしい。昨年、伊勢湾台風の被害地へ百何十人の海賊出現の如く、昔を遡ると難船の荷を略奪、船夫殺戮を常としたる處ありし筈で、後に之を祀ったと云ふことも日本津々浦々にあった。尤も之は生活に窮したる果ての行為ならんも、これはこれ、数時間の内のあまりの豹変ぶりを示したものである。
當地出身の明治の國学院出の中東瀞月の家は立派であったが、防火帯の故をもってダイナマイトにて破壊されてしまった。然し之を取り片づけて完全な防火帯としてしたものでなく、水に対しても恐らく全ていい加減で、大火事となってしまった。
ここで思ふ。警察の悪かった面もあった。戦時中又戦後の世論で批判されてゐるが、もし世の中に警察なく軍刀のバックもなかったならば、丁度あり余る日光、水、空氣の如くただ物の有難さを人は忘れてるやうなものである。概して人は、指を傷つけて初めて指の機能(有難さ)を知るくらゐのオメデタさである。ある家の風呂は鋳鉄で水なくば熱で破壊を免れぬところ、(全焼したが)この風呂のみは水を湛へありしに完全に殘りしと云ふ。
その後、火災保険などで大分非難の聲が起こったが、支払はれなかったらしい。破壊は建設の基と云ふ関東大震災の如く、新たに町の相貌も一変できたのである。新宮はこれで50~60年目の火災と云ふことである。それでも丹鶴町、馬町、相筋辺りは殘った。富豪の多い船町は全焼してしまったのである。この第一、第二の地震騒ぎのおり、一つは戦争、二つにはその混乱で、我としては煙草の運搬に手をやき、買入れにも全く困ったものであった。
阿田和へ廻り、トラックそして舟と云ふ順序に全く困った。人々は受け取りに來る。ニコチン中毒で仕事も出來ず臥せる人あり。朝鮮人を頼み、煙草を与へて(光、みのりと云ふきざみ)持ちに行かせたことも何回かある。又、トラックで運送の途中、はこが破れて金鵄、光など一箱ないし三箱盗まれしこともあった。農業會も主食の輸送に紀州鉱山の索道を頼んだり、プロペラ船に頼むと座蒲団の下の盗んだ米も黙認せねばならず(プロペラ船も主として木炭ガス)、相対的に幾許与へるとしなければならないやうな、金の力の弱い時代で、非常に苦心したものである。小川口まで主食を受け取りに行き、我も計ったことがある。
第二の火事のときの新宮では哀れな話も聞いた。家が潰れて下敷きとなった人、道行く人の足元を見て、出られぬまま助けを乞ひしに、通行人も何とも為す能はず、本人も力なく「助けてくれえー」と叫ぶのみにて、焼死せるものもあったと云ふ。鋸、斧など取り出して現場へ向かって救助しようと云ふ心の發生もなかったやうである。
然し、区劃の整理もでき、市営の住宅も建ち、各々の家も建ち、妻の家も建って移り、新しい新宮は出來上がったのである。
勿論、世の中には悪玉もあり、数々の毒牙にかかりし人もある。一例で云ふと市営住宅を申込みて、ドサクサの間に家の外にもう一軒分の敷地を占拠し、鉄条網を張り巡らし、李ラインの如く既成事実を作って平氣な人もいる。實はこの人は、他で立派な住居をもってる男である。だから、火事場泥棒の外にこんな人あり、世は難しい。 |
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