十津川探検 ~瀞洞夜話~
第二次大戦時のこの辺りの思ひ出
   物の欠乏は食に至るまで甚だしく欠乏し、窮乏し、財あるものにても曼珠沙華の球根を喰ふなど、衣料類はすべて配給係ありて物資を配給したり布(キレ)など切り分けたり。菓子も分け、缶詰も服(スフ製)も籤引き、不要物の交換あるいは貰ったり、要らぬもの、例へば水筒の紐でも不味いものでも強いて受け取ることとした。特に幅を効かしたものは米麦のほかに酒、砂糖、布類、服類であった。生理綿もミルクなども配給であった。
 一切、かくなりき。マッチ一本(戦後もしばし)、煙草も隣組を通じて配給。宿も制限を受け、初めは一定の容器持参、次には米持参となり全く困った。町も山も食料、甘味のもの、そして酒類は一切姿を消してしまった。(一部は別だが)
 紙も不足して雑誌、製本も寥々業務配給、カステラ類似のもの新宮などで出ると列をつくり、煙草も御多分にもれなかった。庶民は随分困ったのであるが、かうなるとただ強いのは自作田ある家または日鉱の如き大きな会社で、軍に上手く取り入って、資材も労力も手に入れ、人の嫌がる徴用免除すべて優先、幽霊は勝手、終には軍隊まで騙して石コロ同然のコバルト鉱を堺の部隊(輜重兵及び工兵)に馬で搬送させようと考え出し、地方の民を欺き、眼にあまる國賊的行為をした。或いは、品物を流して己のみ暖衣飽食、實に許しがたきもので、結局日本中斯くの如き、滅亡日本に拍車をかけて、兵に何かと不自由させて□□を早めた。(戦後は姿なきこの凶盗は、消へ失せた。)戦時中は日用品の配給は郵便局長経営の店一軒で行い、局員も軍隊式となり配達終了後は局長の前にて直立不動姿勢で報告と云ふ馬鹿げたことも國民はやっていたのである。
 ここでその當時をみると、小農は配給にて反って砂糖、酒など得るやうになった。入鹿の鉱山辺りから醋酸、鍋、カーバイドなど持ち來、芋、麦などと交換したものである。(戦後しばしの間も暦賣りに來るもの、目覚まし時計の中古を買ひに來るものものあり。また魚賣り、ラジオ賣りも來た。)北山からは上葛川辺りへ乾芋(カンピョウイモ)を買ひに來たと云ふ。また戦時中には衣料の古いものを求めて來るものもあり、我家では与へたことも多かった。思い出せば夢のやう。
 瀞ホテルには部隊が陣取り、新屋敷を部隊の馬の係留場所として貸した。部隊の動きもあったが、無用なものだった。道の悪い牛道を馬に引かせても知れたもので、よく採算あるものと思った。兵の食料、馬の食料、滞留費その他の費用、實に莫大なものであった。これに平然としていた國民、つまり陛下をいただいた命令。その呵責なき執行の下達に在った軍は、至上の天皇と連なり、身を鴻毛の軽きに比し、東亞新秩序確立のため米英など撃滅するための國家總動員であったのだ。警察などは威張り、何も來ぬと分かってゐる日に灯火管制とし巡査(特にMと云ふ巡査は、己は他人を脅迫して私腹を肥やし、遂に増長して、戦後酒の果て署長にピストルを向けて一瞬の罪にて官界を棒に振る)は喧しく怒り散らし、我々も怒られたものであった。どうも人間の種の特色か、國土の関係か、皆臆病でコセコセしてゐた。兵の長が盗み出す軍需品も大きかった。軍規も乱れてゐた。少佐殿は時には來たり、馬に乗って葛川道の奥行きは恐ろしかったであらう。馬もたびたび轉落、将校も一度負傷したことがあった。森林も軍事色が濃くなり新宮に地木社出現して、平石等の美林を賣り伐るを余儀なくされ前阪武正の如きは、我の小さな枯野谷の杉も伐りさうとかで、父と喧嘩したのを覚えてゐる。これは意地悪であり、思い上がってゐたらしい。理屈(理由でない)の中に、我の無免許医を云ってゐたが、その後同人の娘の医大入学の豪語も露と消へ、立場を異にした浦地君も組合にいた関係上、唯一の山をたった1万2000円で賣り代金も何ケ月か後であったと云ふ。
 都市の憲兵の在り方も分かる。同胞を苦しめて、一つの機関が(國を)喰ったと云ふ訳、何で世界相手のちっぽけな國が勝てるかと、今になってみて可笑しくもある。竹槍の百万本論、新宮辺りの防空濠、焼夷弾の排除訓練などハエ叩きの如きものにて、バケツリレーも何もならなかった。一度一發の爆弾が池田町に投下され、その油脂性は壮烈な燐弾、百發に分解し徐々に熱量多き火飛び散り、忽ち全焼してしまった。軍人会の戦車破壊攻撃も木の枝の多きなるを縄にて引きずるだけの、洵に馬鹿なエネルギーを消費したと云ふべきであった。
 人々は次々と引っ張り出されて、折立にて泊まり訓練、もっぱらの濠掘り、リヤカーの徴用、慣れぬおじさん達の棒のぼり、駆け足、眞に大変な騒ぎ。観閲点呼を文武館でやったが、石黒大佐執行官殿が宿で吾人の口に出來ぬカシワで酒を飲んでゐた。當日は整列して並ぶだけ。ろくでもない曹長殿に殴られる者、教練の時、あわてて池に飛び込む者、いやはや當時は脅へ切ってゐるから固くなってゐるものの、その見送りの様も米國・英國が見たら全く滑稽に見え、腹を抱へ笑ったに違ひない。もうこの時は(日本は)負けてゐ、大本営の發表は嘘であった。
 今でも覚えてるが、身体検査のとき役場吏員出張、臨時の軍医(平谷の□□医執行官)などの前で皆散々の藝當をしたものであった。軍人万能の世の中であって、最後は日本丸と云ふ國民を三流半國へ、一切を捨つる如く捨ててしまった元凶と云へやう。自覚も自信も、原子すら2000年前に云ふ思慮のない、彼我を知らぬ、ただ感情一点の独善的な戦ひであり、空も海も陸も盲滅法無茶苦茶の日本であった。内部の生活かくの如し。軍関係のみ料亭満員の予約済み、推して天日を仰ぐ如く知れる筈をし。東昭雄(竹筒の逓送人)と一緒、船なければ村の見へる岡に立ったある日、新宮方面遠雷の如き音あり。(川を)下るを躊躇せることあり。玉置永彦老の防空頭巾姿を見た。新宮の無理な防空壕、小さな壕、裏山を爆藥で掘る防空壕などまるで人々は尋常の想なく、助かる為にウロウロの如く見えた。グラマン艦載機の襲撃、潜水艦砲の射撃に加へ、B29の編隊、全国主要都市攻撃のひっきりなしの7-15機の爆撃隊、何日もその砲の届かぬ成層圏を飛行する様、恐ろしくも羨ましくも後になるにつれて眺めたものである。一度吉野屋と云ふに泊まりをりしとき警報あり。待避せよと九重の石垣と云ふ人と共に在り、刀の話をしてる折りであった。同氏の顔も尋常ならず。トラックにて皈ると云へるを思い出す。
 鵜殿に爆弾落ち、6ケ所あまり住宅地より外れし田に大穴を開けて池となってゐるのを見た。又、阿田和では汽車がやられ、且つロケットを用ひられ、大勢の人死せしを知る。又、井田海岸の元日に遊ぶ人の前に突如として魚雷來り、一發は爆發し一人を殺し、200m離れし学校の窓ガラスの一枚もなかりしこと。新宮大橋に爆弾落ちて、幸ひ少しのことで外れしも、その破片橋を突き破り、橋を狂はせしこと。中瀬古守章君、眼疾のため相筋に在り、この時の音は夙にハラワタも飛び出す程であったと云ったこと。日杖の上の山に焼夷弾落ちて山を焼きしこと。
 十津川にも在りしこと、一度妻の家に在るとき変な音して爆弾落ち、我色をなして防空壕に入りし。又、帰宅の途、新宮駅付近にてB29來襲、壕の極めて不完全なるものに入りしこと。實は、機の頭上にあるときは恐れる要なしと人の云へる。返って後方にあるときは恐るべしと人は云ひしことを覚えてゐる。
 艦砲射撃の弾は熊野地にも落ち、中森歌吉伯父の長女は田戸に逃げ來りしこと。歌吉伯父の疎開荷物來しこと。やがて他の人々も続々と疎開荷物とともに逃れ來りしこと。東安清一家は中井の倉に。瀞亭には中信重の伯父保市夫婦來りしこと。手前も中二階には堂ケ谷鉱山の阪本と云ふもの在りしこと、同人の故郷粉川では機銃掃射を受けて死人も大分ありたる話、又熊野地に落ちたるとき、一つは墓の中に落ち新仏を飛散させた話。もう一發は住宅地に落ち、死人も負傷者も多く出て、藥剤師山本君も救助に行きし話あり。ある人、病で寝てゐて布団もろとも吹き飛ばされしも助かりし話。(運の悪き人は飛んできた)剃刀の如き小破片で首を切られ死んでゐたと云ふ話。又樹木なども強力な弾丸にて伐られし話。あるいは壕より首を出してゐて爆風に殺られた人の話などを聞いた。この時、東中の入鹿と云ふ菓子屋の妻(葛川中文治の娘)と児の二人歩行中この厄に会ひ、児は土塀に隠れ、母の方は路に在りて小破片にて殺られた。玉置山の横手でたまたま機銃にて狙撃されしもの。十津川山中の炭焼きが殺られしこと。B29の予備タンクを拾ひしこと。また、勝浦へ一屯爆弾が落ちて大勢死傷したこともあった。その時に驛のコンクリート壁のベンチにかけありし5人が全部爆風のため死んだこと。丹鶴町の橋の一部に爆弾の穴あり。又、旧女学校もやられ、ある教師の頭は城山にあったこと、テンワヤンワの世の中であった。
 ある日、瀞の空に友軍の機と敵軍の機がわたり合ひ、殆ど垂直の猛速にて追撃したる友軍機、敵機は飛行機雲を長く引いて飛びし様を見る。この事を竹筒の笠と云ふ男、何かと云ひて流言、前田巡査に取り締まられしこと。夜、上空にて気味悪きB29の独特のプロペラ音を聞きしこと。敗戦近くなりて、愈々窮迫を告げ、堪へられぬ心になりたるを覚えてゐる。いよいよ鉱石(石膏同然分析不能)運搬部隊が去るとき、「もう少しでアメリカさんの旗が立ちますから御安心を」と云ったのが、今も耳の底に殘ってゐる。
注- ・竹筒(タケトウ)-十津川村の一部で最南端に位置し北山川沿岸に在る。
・九重(クジュウ)-現熊野川町九重-竹筒の隣。北山川沿岸に位置する。
・日杖(ヒヅエ)-現熊野川町日杖-熊野川沿岸に位置し新宮市に近い。
・相筋(アイスジ)-新宮市内の地名
・熊野地(クマノジ)-新宮市内の地名
・丹鶴町(タンカクチョウ)-新宮市内の地名
・鵜殿(ウドノ)、井田(イダ)-三重県。鵜殿村は熊野川を挟んだ新宮市の対岸、井田は鵜殿村に隣接する。

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