十津川探検 ~瀞洞夜話~
天誅組に徴用されし田戸の人々
   (徴用されて)1年以上も帰らなかった人、帰るには帰ったが牢瘡(ロウガサ・湿疹)が出來て治らず困った人、代はりに行ってもらって生きて帰ってみたら、当人が川流れに遭い溺死していたこと、(徴用されたまま)行方不明の人などいろいろである。
 中森与平治(我曽祖父)と一子陳平と征く途中、東野の尾根(ウネとも言う)道で与平治云ふ。「二人共死んでしもふたら種切れしてしまう。お前帰れ」とて陳平を帰宅せしめしと云ふ。かかる次第。
 高取城攻撃の時、照準が下手だったためアームストロング砲の新式破裂弾が後方に落ちた際、狙撃を受けたりと早合点し大混乱となり、敵の陣の前に立つこともなく、偏に恐ろしき氣持ちの者のみなれば、敵の下手打ちも幸ひして深田の中に落ち込む者、泥んこ池の中に飛び込み、亀のやうに首だけ出して隠るる者、槍を初めて持ち壁を突き抜き得ざる一部の浪士の如く、心身の訓練なき無自覚の烏合の衆の十津川兵が殆どであったらし。高取方の間髪の急追、そして伏兵には肝を消したらしい。
 勿論、十津川兵、この神下でも西嶋隆義君の曽祖父の如き名を留む雄々しい武者もあったが、(高取城攻撃の)敗北は決して恥ではない。むしろ當然である。強いて云ふと、リーダー達の十津川観が誤ってゐて、十津川こそ如何なる者も士魂と腕を有するとした粗野極まる徴兵方法をとったのである。綿密に思画を巡らさなかったからである。山仕事、肥担ぎ、日々の生活に追はれてゐる者に何が出來やう。中山侍従と浪士は笠捨山を越える際、露営した。(徴用された者は)風の音を利してスズタケ山に一人二人と逃げ去り、朝見ると人夫は大いに減じてゐたと云ふことでも分かる。大体天誅組の幹部にも初めから無理があり、天皇の行幸取り止めと伝はっても、乗り出した船なれば、取り止める訳にはゆかなかったのであらう。

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