十津川探検 ~瀞洞夜話~
葛川谷の昔の階級、その他
   昔も今も同じ部落は部落、字は字、地方は地方、村は村と云ふ風に、対立ではないが、勢力を伸ばし自己の發展の基礎とせる如し。
 米一升のこと、鹿皮一枚にもなかなか今思ふ以外の當局(権力者、代官、江戸の老中、京都など)に届け出て、自己の存在を明らかにし、ことあるにおいては働きのことを、由緒を大切に訴へ、又は處を得し如し。
 階級も十津川は、文武天皇以來「南山忠義の里」として、事大主義ながら大阪の陣の時も出兵したり。但し、関ケ原の時は地を削らる。これは十津川の誤りによるなく、北山一揆の収拾の時に楊枝の常樂寺長訓のため恩賞として、その上(カミ)より削られしため槍300本分を失へり。然し、天誅組の騒乱の時は、皇軍御先鋒の組に加担後惨敗、紀州などより手酷く報復されたり。この辺は幸ひなかりしも、権力(地方)者住する地方(地理的にも近い)は、家を焼かれたり侮辱されたりしたものなり。然し、後には中川宮などにより幕府の衰へる折柄とて□□、第一天誅組と分離し、水郡一行を火藥の計にて追い出し(之は単なる誤りにて水郡一行は實に立派な人々であり、十津川人の一部と比べ同日の論でなかった。)、天誅組と分離して退散を乞ひ、板挟みとなった野崎主計、深瀬繁理の死となった。當時の郷内、各戸よりの非難の声は、實に塩であった。その塩200俵を紀州より送りくれし詫のこともありし。
 十津川郷は、他と違ひ領主を特別の故にもたず、特長として郷内に大なる権力者(出たことも少なくなく、昔に至るほど多いか)を認めず。立派な姓を有し、名もいかめしい侍名もって人々に尊敬される家柄も多くあったが(系図も含む)、合議制で長や職を撰んだものらしい。姓のない、例へば百姓茂八も万一のときは動員されもし、士族の分家(この時の士族の意は、後の明治の士族・平民の戸籍呼称とは違ふ)、一級下層も準士族なりし如し。
 然し、勢力のありしものは主として十津川本流、西川に多くあり。この辺にては上葛川(例へば中善藤太の如し)グループより下葛川(東弥兵衛)の如く、田戸なんかは上田戸・下田戸と細かく分かれゐたりし時もあり。凡ては下葛川あたりに從ひし如し。
 御親兵、日本の観兵式は東京代々木にて明治天皇初めて行ひ給ひ、その兵は十津川兵なりしこと、我昭和10年頃ラジオにて聞く。且は、大正・昭和の天皇即位の時も十津川郷士の席を賜ひ、その後の侍從派遣のことありし。
 右の如く勢力は主として本流筋に握られてあり、むしろ玉置川の方、笹・徳田の昔を考へても勢力名門とも云ふべし。結局、考へてみる。凡て昔の田戸は人外の里であり、殿井氏も出したが、全く草深い里であったらしい。同じ大字神下にしても、有蔵、神山などよりは埒外にして寺もなく、大昔大塔宮潜行の際に王森山を有しつつも、あまり注目されなかったらしい。主として土地では上方に居られ、瀞などは見下ろすと云った方がよろしからんか。彼の名ある太平記の「見上ぐれば万仞の青壁剣を削り、見下せば千丈碧潭藍をたたへり」は、その形容瀞に近い氣がする。森すなわち王森の頂上はかすか住まひし跡を知るが、資料なく、草深き家も當時は極めて少なかったに違ひない。
 1000年以上の昔、役の小角の眼も玉置口より玉置山は映ったであらうが、田戸・瀞は顧みられなかったことであらう。星霜が移り、急に注目され出した瀞、この谷筋にとって重要な地となり脚光を浴びてきたのである。
 我の20歳頃發見の菊の紋ある御綸旨の箱、大沼の塵捨場で發見のもの、ただ一介の箱のみなるも、之にて以前竹原八郎を谷瀬、大塔、北山で白熱の出身地奪ひ合ひがあったがこれで何なく科学的に証し、何れも無理なく円満解決可能なりし。(手凍り執筆中止)
 維新前後、あるいは昔に遡るに從ひ、由緒を大切に扱ひたり。拱腕して思ふ。どうしても本流沿が重となりし如く、毎年の届・達しに対する「乍恐言上」も庄屋(以前は庄司、目代など)筋の顔触れは、高津村など高田文左ヱ門などの名見える如く、勢力は彼の地にあったらしい。山造り、山仕事、良き材の加工物(板・巨木・伊丹)などを主とし、また貴重で多価なる椎茸は担いて都市に出した。これは大いに注目すべく全國的ではあるが、財をなせし者もあり、一般人も益を得し重要産物と考ふ。(毛皮のことも昔の文書にみえるが、重要にあらず)夫々生活には、勤勉に励んだらしい。
 かかる仕事に一般は専念する傍ら、炭焼きも多くありし如し。江戸奉行よりの示達も質・量・価の面であり、且つ秀吉桃山に聚樂第を営みて豪奢を誇りし時、大地震ありて建物の損失多きうちに、獨り北山村より寄せし材もて造る櫻の間は変化なかりき。秀吉大いに嘉し、前年十津川を無年貢とし(檢地の改役、小堀数馬北山に至り有年貴地とせしに騒ぎたることありし。)北山に対し以後年貢米の代わりに木材を納めよと云ひしかば、年々北山より新宮を経て木材を移出せり。
 然るに延ベ10000人を超える流送の筏人夫は、十津川より出づることとなりたり。米のないところ、乗賃として米を下さるため、多分76石7斗8升の毎年の下され米は、貴重であったらしく、政治的にも重要であり、毎年正確に請求せしものらしく古文書にあり。
 主たる郷士は財も学問も有り、文を書き識見も相應にあった。中央へも(大阪・京都・新宮・五條・上市)出でぬ。又郷内では役職有り。報酬も有りし如し。官よりの命令も當時としては、なかなか考へて、十のものは六乃至七に留めるために努力したらしく見ゆ。特に貢物は徳川時代将軍家日光御社参の節は、郷よりして特別の籠様のものを作り、ホシダイいくつ、酒樽入り何升の如し。形式ながら台の置き場所も品ごとに変はり、担うものの外を括る縄も蕨縄とし、御用の札を立てて、代表が参賀奉祝に東海道を下ったものである。さぞや煩労なりしなるべく、京都におけるこれら品物の受け取りも控へに見ゆ。(例えば、銀何匁の如く記されてゐる)
 酒屋小規模ならんも東中(入鹿)に在りし如し。旧幕の頃と思ふ。夜、提灯を点けて酒の槽を見回り中、發火(アルコール点火)、大火傷して失せしと云ふ。乏しき米のうち、やはり之を商賣とする家も在りしや。大体、西川・平谷・折立なども造り酒屋の在りしこと、明治・大正の頃まで尾を引きてありたり。當田戸など黒砂糖は九重の盛岡店、酒は小川口の大黒屋の如く、口の樂しみもなかなかのことなりし。
 折立平石、前國会議員玉置良直氏の母、我に云ひしことあり。「ムギグワシン2錢買うて喰ふて良直はセチガレタ。」財閥の當主尚然り。況んや衣食住一般においてをや。平石の良直氏の厳父は前郡長であり、この谷に初めて荷車道を開きし後、災害にて死亡不明となるは「ニマメ」は袖すれるとて喧しかりしと云ふ。下葛川の東と云ふ我ら関わりあひのある家(浦地・我・前久保・竹の内・上田など凡て関係あり。考ふるによほど財ありしか。)は、文久の変に加はり、鬼の如き働き者であったが、弟姉妹に山を呉てやるとて父と口論し、遂に切腹せし。火の如き蓄積と労務力の大慾の権化となる人なり。また、同家の人が立合川より山を越えて人糞を肥料とすベく肩に担ひて下葛川へ持ち帰る途、道の悪きため倒れしに、手づから糞をつかみて桶に入れしと云ふ。その眞摯、今より考へて夢の如く、恐るべき働き魂なり。田戸にも大正の時代、成金出でしとき大渡より我工場の同様のものを運びし人もあり。蓋し、上田の我の曽祖父の如き、14歳で一人ぽっちとなり、麦畑を打ちしに、最初の方麦蒔きし處青くなりゐたりと云ふ。狡げず、怠けず、人を欺くことなく、眞剣に働き尽くせしものの如し。
注- ・「以前竹原八郎を谷瀬、大塔、北山で白熱の出身地奪い合いがあった」とあるのは、竹原八郎の出身地について、それぞれのムラが正統を主張し、白熱した論争があったことを指している。
・「板、巨木、伊丹」の巨木について
 東直晴氏は、「キョポク」と読みたいと言う。昔は巨木でなければ市場へ出さなかったから。
・上記のことであるが、文中では「板、巨木、伊丹」の上に加工物とあるところから巨木は経木の誤記であろうと推察する。
・ムギグワシンは麦菓子のこと。・文武天皇とあるが、伝承では天武天皇である。
・セチガレタは、「叱られた」の十津川方言。

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