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天然の色艶やかに水も澄み、岸壁の緑も生き生きと麗しく、苔の装ひも光ってゐた。岩と山は天高く聳へ立ち、啄木の音も長閑に朝に木霊し、冬ともなれば無数の鴛鴦の群飛び、陽の季節となると五月雨、水に映える岩の間を点綴し、プロペラの暴音も全くなく、ただ筏や和船が時折上下するのみ。エンジン船の試みありしも、なかなかの不十分であった。水中には緋の鯉を見、甲羅乾す亀の様、高きところに悠然とかまえる鷹の婆、啼き声して時折通ふ小鳥たち。
旱天ともなると川を上り來るスズキ。之を追ふ村人のレクリエーション。鮎も豊かであり、山の動物も川の獲物も今よりはるかに多く天然を誇ってゐた。
目前の対岸の岩の上に群れを外れた大きな一匹猿が時々晝寝に來る。鉄砲あればなかなか出現せず。船夫の声に驚きて岩上り行くその姿。不便さは今の開發ブームの世と比べ、その点は惨めであったと云へ、しかし、今の時代より落ち着いた自己過信的かと云ひたいくらひ、はっきり自然の足元を見つめ、貧しいながら「日日是好日」の如く送ってゐたのであった。流轉は世の相(然し自然の法則は絶対不変)と云へ、又當然の現在であるが、空を舞ふ一羽の鳶を見ても、人の話を聞くことも、船の往來、客の質を考へても何と落ち着かない、変化の激しいガサガサの世になったものかな。その頃は、洪水も時には多く、規模も大だったとは云へ、今の様な油浮き微粒子の濁りのない、つまり慈味のない水では水でなく、増水、減水も川床の高低も決して今の如くではなかったと思ふ。奥地の伐採開發その他のブームによる一種の被害とも云へる。人の力では防げぬことは、人の運命でもあらう。人は絶対ではない。必ず相反することがつきまとう法則に洩れない。
以前書いた東久世通禧伯(七卿落の一人、歴史にあり)の歌へる歌も又赤壁に似せたを賦す漢詩の如き、自然をたたへ唄ふ昔の面影はもはや見られない。眞の心ある文人貴顕墨客画伯の数も凡そ暁天の明星の如く、よし來遊さるるとも往年に比す何物もない。皇族は朝香宮殿下、和船をしつらへて白衣の船夫で初めて御來遊。その後多くの皇族も來遊せられしも、独り朝香宮のみ印象にあり。
東久世伯の筆の跡は、新宮大社境内のナギの樹の傍らに鮮やかな筆の跡を碑に殘してゐる。明治20年代と云っても、今としては太古の如き変はりやうである。瀞で作られた漢詩を次に記すと、
寒碧清澄不起漣
昆嵩削出別坤乾
恨蘇仙不遊此地
赤壁慢令如賦傳
とあり、公卿貴人として當時として蓋し最初の人と我は考へる。
多分大正12年頃、夏の朝と思ふ。山元春挙画伯この地に遊び、朝霧の中をついて下瀞へ小舟を走らす。水夫(カコ)は多分杉岡直吉老人か? 辷り岩の下手、屏風岩の対岸下手あたりまで行きしに、一匹の猿、岩の間を下りて水辺の岩に坐して水を飲み居たり。折りふし画伯の舟その側を通る。その間僅か。早速手にせる柿を投げ与へしに見事之を受けて遁れ、山に入りし如きは、到底今は叶ふべからざるものであらう。猿の群れも多く、浦地の前山あたり、雌猿の仔を負ひたるものを交へ、続々樹間を異動してゐたものを視たるもある。今の局の2~3丁の小川(葛川)にて小魚獲りの最中、我の頭上の樹に見張りの猿の叫ぶ声、樹を揺する音せしも昔のことなり。
我等、その頃は珍しいと云ふより身一切のものも、大人も子供も新宮とは和船ルートよりなし。紀の川、五條あたりより反物も、先走りのゴムウラグツも、女の髪飾り、鋏、ナイフ、鏡の類まで人力の肩にて來る行商人によること、實に多かった。近くの静川(シツカワ)や篠尾(ササビ)からアルマイトに代わる赤漆、青漆のワッパの弁當人れ、後者は頑としてチョンマゲの牛のハナグリ賣り。おそくまで西山辺(西山村、現紀和町の一部)よりオカイジャクシと云ふ木製の杓子(その人の自慢によるとなかなか作り方の難しきものなり)など売り込みに來れるを知ってゐる。尤もそれ以前には黒砂糖一斤を買ふも九重(クジュウ)の盛岡店へ行ったと云ひ、酒は我が母の生まれた小川口(紀和町)大徳屋へ行ったと云ふ。我等の幼時もかくの如く不便なるため、今の入鹿(イルカ)、新宮を対象としては夢の如きであった。店を主として(今の思想より云ふと一の搾取形態であらうが、ここに又今にない當然運命的な小社会であった。)陸の孤島として是非もない。上るに2~3日を要し、時にはそれ以上を要する川船なれば是非もないが、運輸の重大機関のこれら船は、いろいろ注文するより致し方なかった。撰ぶことは不能であった。注文ものの來るを、子供は子供、大人は大人で之を待ったことは非常なものであった。
瀞の釜石(カマジマ)あたり、(和船の)隊を整へて櫂の音もリズムをもって高らかに山彦となって岩の間を聞こえると嬉しかったものであり、着くや否や尋ねたり。後は渡さるる間の楽しみとしたものである。花火の如きも電氣花火(マグネシュム線のみ)、水雷艇など興味深く、此等の線香花火も一本一本喜んだものであった。
新宮へは殆ど下りは船、帰りは徒歩にて相野谷、櫻茶屋(旧尾呂志村奥地の真北の391mの峠)とて、尾呂志村の頂上、海の見えるところで昼食を済ませ、矢ノ川を通り入鹿を経て帰りしもの。夏の日の暑さ、長い相野谷道中を憶へてゐる。我今足の自由を失ふも、そのとき4歳にして父に伴はれて帰りしことあるを知ってゐる。矢ノ川の宿と云ふに泊まりしをかすかに知ってゐる。
製材の奥地、上葛川より更に山を越えて小川あたり、大なる起こり、小なる起こり、山の仕事も増加するに及んで船の数も増し、櫓擢の青も賑やかとなり、今瀧や、何れかと云ふと立合川のおく、森林の開發事業起こり、船もこれを主として上瀞、有蔵口まで行くやうになり、住宅や事務所、店、宿も立合川口にあった。
立合川と云ふところ、奥に元禄の頃の木地屋の墓あり。五條のカンバヤシと云ふ人、火力の製材所を明治初め起こせしと云ひ、我父も製材所を設け、岐阜木材、日田木材、猿松木材など、又秋田木材など代々入り交じりて、会社投資、個人投資のことありて、不思議にあの嶮岨懸崖の場所ながら無理な道を設け、事業の対象となし興亡を続けたるところである。それだけ影響もあり、瀞を偲ぶものは上瀞のここにも思ひを馳せるべきである。有蔵の岩の上に火力エンジンの製材所もありしことを、而も我20歳頃か、夢の内にありありと覚える。 |
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