十津川探検 ~瀞洞夜話~
我採取せる當地初の化石のこと
   この夏のこと、一大阪人あり。玉置口校へ、瀞で遊ぶための予備知識として極めて一般的でない、最も地味にみえる瀞の地質につき問い合はせあり。我に回して來しため、門外漢ながらに知れるだけのことをと考へ、地図を一日がかりで作り、送る。単なる遊び族の多い中に、写真など見てのみの小谷と云ふ大阪人の頭脳の明晰さに我一驚す。
 そのうちに我22歳の頃、奥の谷にて銃猟の帰り遺、石に躓き轉ぶ。日暮れたるも怪しき石と認めたるため、全力を尽くして之を運び、中森勇吉氏方にて餘を割り取り持ち帰る。貝の化石と見ゆ。戦中より最近まで学者諸氏之を検し、アムモナイトの化石と云ふ。後、フナムシの如きのみ得し以外、再度この類を聞かず。結局、700万年前は海底なりしことを知る。
 瀞の水面上200m以上の砂岩の中に之あるとは、人間の歴史も地質的には、ほんの電瞬の間と云ふこと、蒼桑の変と支那に云ふも、また玉置山犬吠への檜の傳説もかかわりなしと無碍には云へざるなり。また、かつては(この付近一帯が)一大平原なりしことも、前の京大調査にて分明、更に葛川鉱山より出でし人間發生以前のトクサ・ケゴ(南洋の大シダ、幹は人の腕の如し、トクサも巨大なるもの)の如き、今は全く見ざるものを思ひて感深い。今は原子逆算法にて僅かの差で、ある年代を確實に知る世となり、音川(和歌山県、宮井大橋下流の里)あたりの石炭の炭化も分明と云ふべし。この大トクサの頃は、大爬虫類の横行せる時代なるべし。瀬戸内海より101ケのマンモスの巨大な化石を發見せしと傳へらるる折りなればこそ、洵に人の智も明も愈々桁違ひの暗々に向かって進み、この尽くるなき自然の開明に世をあげて大童の様も肯るところなり。人は現在を重大事とする。然し、大自然中の変化は全知全能の造化、神のみ知るところ、無力なること此の如し。

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