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寺小屋式の我等も、小5より本校へ移る。折節、校長君島氏の後を追ひ、新校長として後木先生赴任す。片岡八郎の辺りまで迎へに行きし記憶あり。暖かい冬の日であった。腰を下ろして思ひ思ひに待つ。今でもその日の暖かさ、新校長を迎へるいそいその氣分と、半分どんな先生か案ずる念半々なり。大人の役員の内、上葛川の西岡重馬氏の若かりし日露の金鵄勲章の血色よき顔が浮かぶ。
やがて、師範の制服と帽子、溌刺として元氣良く20歳そこそこの先生を迎へた。新しい師範出、越智氏正氣書院で鍛へたるぱりぱりの先生である。
第一、体罰も何も差別は一切ない、今までの旧風を刷新のため、すべて理論的で厳しく怒りもし毆りもした。理科の實験も新たに器具を購入して實験、唱歌もまるで暗雲を払ふ如く一掃してしまった。
五線紙の音譜の記号もそんなこととなるかもしれぬが、新たに示し、オルガンも新しく取り替へ、熱をこめてやってくれた。不潔と称し、上級の生徒と旧住宅の部屋壁などを丸木にてドンドン破壊して大掃除、不要な書物も校庭に堆く積み、焚焼した。石炭酸、果ては硫黄を焼き、亜硫酸ガスを作って、君島先生の病根の因ここに在りと処置せり。謄写版も永らく機能なかりしを新品と替へ、盛んに利用し、運動会の時には新報を発行したり。
かかる故、我等恐ろしきくらい算数など予習したものである。
先生は、大渡に下宿(元の梅の屋)し、朝連れ立って行く。長靴和服のときもあり。いずれも元氣良く、雪の日も闊歩したのを知る。
先生は、よく家庭を訪ね、さまざまな教育のみか、造林会も結成したのである。
寒中水泳もやってゐた。剣道は好むところ。そして、学校始まって以來の退校と云ふ処分をしたので、旋風を起こしたと云へる。
運動会も校庭は狭しとして、田戸の川原へ青年、生徒など動員して、会場の整理設備も文句なく、先生のリードにより完了してしまった。
神下分校へは新しい栃谷先生(後朝鮮金山面に出向、今は高見村のよし)が來り。この先生ともう一人の先生にて田戸川原の予定会場に器具を用ひ、棹や縄なども使ひ、線を引かせたり支へたりして、あの石塊の川原へ楕円形を記したもの。その後三大字総動員の形で石を除き、杭を打ち、縄を張り、部署を作り、道具材料を用意し、アーチを杉の葉で作り、これに額を入れて、粟の地に小豆を糊付けして、『韋太天』の文字を浮かす。一方、菅屋の基彦小父に頼みて、金・銀の紙を切り抜き、布地へいちいち房を取りつけ、槓頭の章は木製に金地の記章、杆は黒糸糊付けで巻くと云ふ騒ぎ。先生は、口論を青年たちとしたるときも、實に勇敢に処置してしまった。實によく賑わった運動会であった。生徒、先生、父兄、一般の観覧者は洵に多く、万国旗の下に生徒のみならず青年、大人も競走もめざましく、面白かったのは三尺竹の割ったものへグラグラの細紐の下駄履き競走であった。走りもならず遅れもならず。南瓜割では東中の前阪武正の父、目隠しの上、大横の方角を叩く。又、中西藤彦がみごと叩き割ったのを拍手した思い出あり。マラソンでは、紙屋彦助(現逓送の紙屋の父)は、いつも先頭であったかと思ふ。トップに立ち、トラックを巡るごとに掛け声を長くあげる鉢巻き姿を覚えてゐる。
賞品もかなり用意してあり、新しい試みとして葛川新報の配布など。
凜たる辞、その経過、終末、内容、現今の下と事情は変はるも、實によく賑はひ、熱が入り、華やかなりし明治の歴史を弔ふに十分であった。運動会と云ってもプロペラ船もない時代、よくぞ出來たものであり、これ以上のもの、我未だ知らない。
雪合戦も時々やらされた。ベースボールは狭い土地を用ひ、木綿かがりの球を杉のバットで打ち初めて行はれた。あまり体罰の厳しい故と病氣のため去って、後大阪齊美小学校へ替はられたが、去られて後は知らず。ここでは大正初期の教育エポックメーカーであったことは誤りない。今老ひて益々元氣、村議として活動せらる。尚、思考の俳号にて大分上流の弟子もあると云ふ。
・冴へかへる幾日を梅の蕾かな(これは20年も前の臥薪嘗胆を云ふ。)
・政変も何処吹く風と松立てて |
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注- |
・越智氏正氣書院については不明。 |
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・菅屋の基彦小父-中森忠吉の奉公先の旦那 |
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・「政変も」の俳句について-この句は東直晴氏への年賀状にもあったが結びの句は「松立てて」ならん。当時、一般に門松廃止を云ふたが、田花先生は依然として松を立てた。その年の年賀状に書かれたものである。 |
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