十津川探検 ~瀞洞夜話~
以前の田戸通路と宿
   瀞が世に顕れない明治20年頃前後は、(瀞八丁も)寂しいもので、和船も時たまのこと、人の來りて木津呂方面へ往來あり。
 先づ、東野より奥の里から來る人は、現在の杉岡の下を通りて山に本通り、向井山より浦地を経て、川を渡りて行きけり。山口及び浦地は宿を営みたり。我幼時の頃、已に山口は旅館を止めたるも、浦地のみ川と平行に小さな玄関を具へたる二間余りの座敷ありたり。但し、今はなし。瀞へ來りし南画家と云ふに村田香谷氏あり。これに宿りて画きたるらしきも瀞の画は傳はらずして、今は我の手に猛虎に竹薮の図のみあり。
 (物資の)移出は今瀧(東野)を主とせしため、あまり現在の場は顧みられざりしなり。
 奥地より物資は山谷を経て人肩を労し、今瀧に出でしと聞く。つとめて椎茸、板、伊丹、炭にても上位のものを運べるよしなり。
 菅家は平石より分かれて出で來、玉置高良氏により旧車道を葛川より開通され、この家の地方的に経済上も文化的にて中枢となりしに加へ、之の瀞亭(旅舎名)たりしところ、上田の我祖父の進出その他漸々発展せしものなり。
 まことに菅家こそは植林に凝りて破産、まもなく地を去りしも、名士貴顕の宿ともなり、また文も書もよくし、店を開き、平石とタイアップし、金融一切、當地文化の魁となり、エポックメーカーなりしなり。上地に至る最近までの道も、この家によりて開かる。瀞山、下瀞山、二津野の奥、今にしてみれば莫大なり。徒らに忘るべからざる家なり。
注- ・二津野の奥-十津川本流筋の大字二津野の奥のこと。

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