十津川探検 ~瀞洞夜話~
高橋管二先生
   昔は山をもってゐても、田戸の人々は大変苦労したらしい。米をバケツに入れて山に行くなど、また麦飯の米の部分を仏に供したるを父兄弟は爭って喰ひし。たうもろこし、さつま芋など零細極まる農家が山腹を切り開き、栽培せしものなり。農地とは定義的な言葉ではない。然るに維新後の変革にて医者、儒者の乞食同然流れ來るもの多かりき。玉置川の玉置英隆医師の父長元などの如し。ただ感ずべきは、田戸の先人はその貧乏のなかで智識慾に燃え勉学の志ありしこと、なかなか今の不勉強、ミセカケとは違って、向上せんとする人間,意氣に燃えていたことを知る。
 我の本家の墓に、今一基の墓碑あり。表には高橋管二之墓とあり、真には武蔵の國の儒者とあり。我の伯父友吉、東辰二郎、中作市など合同で建てしものである。50歳の年頃で來りし高橋を聘して家を与へ、妻を娶りやるなどして若人ら習ひしものなりと云ふ。小学校も出來ぬ前のことなり。然し考へると之に習ひ、学ぶべきところ多し。

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