十津川探検 ~瀞洞夜話~
田戸の地名につきて
   奈良県の地名研究所も恐らくこれは判り難いから、我久しく之を考へ案じたり。周囲の地名は、何れも維新時のとき、頭と尾をついだり、地形上より、地位上より、また権力者の影響、文化的になど、それぞれ合点させられる。然るに遅く開けた田戸、この名称は誠に解釈に苦しむなり。田も、ずっと後に小さなもの二枚だけのところ。奥(上葛川方面)にも格別の米の産地なきに、田戸と云ふ地名である。
 三重県側に十津川村と同名の地名がある。例へば平谷、小森、大野、片川、七色などあるは多分政治的で、大塔宮時代より始まるか。西牟婁郡近露村の野長瀬(太平記に出づ)家の末の300年以後の関連を見ても分かる。
 木津呂は狐野、玉置口は玉置より、有蔵すら玉置山と関はりあり。九重は「ここのへ」、竹筒は「竹の花筒」、また百夜月の傳説、花井は「はなの井戸」等、誠に雅な名あり。清盛の父、平家全盛の頃、三十三間堂棟木の奉行として來たり。宮井、九重、楊枝のあたり、川向ふの貝持ちのあたり、いろいろ傳説のゆかしさを殘す。なお三十三間堂棟木の傳説の由來で、お柳と云ふ柳の精と兵太郎の哀しい恋は唄ひや芝居に、昔より現はれてゐる。
 文も武も知る名高い薩摩守忠度は九重の豪族との間の生まれと云ふ。戦場に出で立つとき引き返して來たり。知人の公卿に、「この歌の中より是非一首、良き歌あらば新古今集に加へてよ」と、去った。鎌倉武士の粗野ぶりを笑はしめたと云ふ。
   ささなみや志賀の都は阿れにしを
          むかし乍らの山櫻かな          が、今に残る。
 田戸は、いっこう浮かび上らぬ。元々、寺の一つもない寂しいままで通し、瀞の清流、急崖世に出るまでは草深いところ、何の由か、地名の來し方は不明である。ドロと云ふものあり。ドロ(トロ=淵)の多いところ、多淵、(タトロ)かとこじつけてみたりした。全國に三ケ所あると云ふドロ、瀞は日本文字。(しかもこの瀞の字はいつからつけられしか、それまではトロ、ドロ、とろ八丁、また土呂などと書かれしらしいが、之は我の研究の証拠により天保四年、眞のどろ見物として草鞋がけで來た新宮藩の鳥井塾生により初めて瀞の字が用ひられた)
 偶然と云ふか、昨夏のこと、突然神奈川県の田戸宗内と云ふ人來り。私は平家であり、近所はみな源氏、田戸と云ふ奇妙な地名を聞き、懐かしく聞きに上ったとのこと後で手紙で返事する旨して、我の考へを書き送った。
 之によって案外分かり掛けてきた。維盛系の一族子孫は、那智沖で維盛入水と見せかけて眞は色川衆と云ふ一団の者に助けられ、色川藤棚の嶮によりしばし憩ひて、本宮より十津川筋に進出、社家として地方権力ヘ移動したこと、また維盛は高野十津川に入り、今の護摩壇山にて護摩の占いで源氏に負けることを観念し、附近に土着したり。血筋から云ふと今の三里の清水家と云ふ。我一族も相當の名家(平氏)として、昔誇ったらしい。
 然るに、一方平資盛(織田の祖)も東方より來たらしい。玉置山はかなり重要な大信仰の中心であったらしく、我一度それらの古文書に見たことがある。非常に厚遇受けし如く、「玉置山へは足を向けて寝るな、大恩あり。」後、十津川の神納川に至りて勢力を作る。現に小松の姓、政所(マンドコロ)に鹿切丸の刀、傳へ殘る。(この刀は川向かふの鹿の首を此の方まで斬り落とした傳説あり。)足利時代、信州より永池信濃守が玉置の荘司として來たことを、その末裔なる尾呂志の陣屋の裔より、我聞く。また三山の記もありしに、惜しくも83歳のその人没後之を失ふ。寛文年中の古書にも(我が家の)社領1500石とあり。秀吉の検地棹入れ石高調査の時、小掘数馬十津川を1000石とし、由來に免じて返されしと聞く。されば十津川村玉置神領は非常に大きかりし。少なくとも風傳峠(尾呂志)よりこちら田長の地で發見されし碑に、「從之以北十津川領」とあると云ふ。今の如く土地が減ったのは北山一揆の後であらう。
 資料はなけれど、田戸と云ふは前記の如く田戸の姓(子孫も今ある)を有したる平氏の一党の栄えしことあるらし。政治的な関係、その田戸姓の現存、そして又亡父が古老より聞き伝へし「田戸は平家らしい」の一言も仇にはすまじ。史を按ずるに源氏は征夷大将軍の専賣であるが、源平交替の歴史であることを思ふ。
注- ・風傳峠、田長はいずれも現在三重県にある地名である。
・北山一揆については、別項の記事を参照されたい。

瀞洞夜話へ